倉橋多賀谷氏の当主。兵部少輔。興基の父。倉橋本浦の春日神社の棟札によると、天文二年(1533)に多賀谷興頼が同社本殿を造立したとされる。
毛利氏と敵対
天文二十三年(1554)の毛利氏の叛乱に際し、倉橋多賀谷氏は大内方についた。天文二十四年(1555)五月、小早川隆景が有田拾次郎を多賀谷氏のもとに遣わしている。興頼に対して降伏勧告を行ったものと考えられる。
しかし、興頼はこの勧告を拒絶したらしく、八月、倉橋で毛利勢と大内勢が合戦に及んでいる。大内方の白井賢胤は、陶晴賢に11通の軍忠状を提出している。この合戦が、大規模なものであったことがうかがえる。
倉橋多賀谷氏の滅亡
白井賢胤の軍勢は、毛利方に攻撃される倉橋多賀谷氏の救援が目的であったとみられる。しかし、事態を打開することはできなかった。
18世紀に記された『芸州倉橋浦風土記』には、古老の話として倉橋多賀谷氏の滅亡と丸子山城の落城の様子が描かれている。城外で倉橋多賀谷氏の軍勢を撃退して城を包囲した毛利方は、暗夜に乗じて城を攻めて火を懸けた。城内が大混乱に陥る中で、長子・興基ほか累代の家臣も戦死、あるいは自害した。興頼自身も、自害して果てたという。