美濃焼の一種。黄瀬戸と同様、瀬戸の黒色の茶碗という意味からその名で呼ばれる。器種はほぼ茶碗に限定されている。美濃国の東濃地域(可児、土岐、恵那の3郡にまたがる地域)における大窯*1で、天正年間末期頃から17世紀初頭にかけて黄瀬戸、志野などとともに生産された。
瀬戸黒の誕生と変化
瀬戸黒の釉薬は鉄分が多い鉄釉とされる。これを焼成中に窯から取り出し、急冷させることで漆黒色に黒変させている*2。もともと天目茶碗を焼くときに、釉の溶け具合を調べるために色見本として焼成途中のものを引き出したものが、冷たい外気や水にさらされることによって釉膚が黒色に変化することから誕生したとされる。
同時期、京都では千利休の指導により楽家初代長次郎らがいわゆる「黒楽茶碗」を製作。この楽茶碗が瀬戸黒の誕生に影響したともいわれる。一方で両者の工程には大きな違いがあった。楽焼は基本的に一つ一つ手捏ねで成形し、削りで形を整えた後、一つ一つ小型の窯で焼いていく。これに対し瀬戸黒は一度にロクロでいくつも作り、削りで形を整えた後、大窯あるいは登り窯で一度にいくつも焼成する。
造形面では、尼ヶ根窯跡(岐阜県多治見市小名田町)から高台が高く腰部の丸みをもつ半筒型の瀬戸黒陶片が出土しており、長次郎の黒楽茶碗との類似性が指摘されている。
ただその後、瀬戸黒は徐々に形を変える。低い高台をもち腰部が角張ったものが現れ、また口縁などが歪み、そこにさらに線が刻まれたり、歪みなどの作為を加えた作りとなっていく。瀬戸黒茶碗の優品として、利休所持と伝わる筒型の「小原木」と半筒型の「大原女」が知られる。
この瀬戸黒にさらに強いヘラ削りと大胆な歪みが加わったことで、いわゆる沓形の「織部黒」へと変化していったと考えられている。
畿内への輸出
天正十四年(1586)十月十三日朝、奈良中坊井上源吾の茶会で「宗易形ノ茶ワン」が使われた(『松屋会記』)。この時の「宗易形ノ茶ワン」は楽焼の茶碗と考えられている。以後、茶会記の記録において、それまでの唐物、高麗物の茶碗に替わって「セト茶碗」(美濃焼の茶碗)や「今ヤキノ茶碗」(楽茶碗)などの和物の使用例が一気に増える。
天正年間末から文禄年間における元屋敷窯跡(岐阜県土岐市泉町久尻)の器種組成をみると、天目茶碗25%、小皿33%、擂鉢14%で計72%を占める。一方で黄瀬戸は6%、瀬戸黒は1%であり、茶陶の生産量は全体の中では必ずしも大きくはない。しかし畿内の新たな茶陶の需要にも応える生産活動を、陶工たちがはじめていたことがうかがえる。
京都市中京区三条通界隈の中之町遺跡では、遺物の約75%が黄瀬戸、瀬戸黒、志野、織部といった美濃窯の製品であり、特に元屋敷窯の製品と思われるものが多く含まれていた。遺物のやきものは使用された痕跡がないことから、同遺跡は瀬戸など美濃窯製品を中心とした茶陶を商う問屋跡だったと考えられている。畿内への瀬戸黒など美濃焼茶陶の輸出は、このような問屋・商人を介して行われたものと推測される。