戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

黄瀬戸(美濃焼) きせと

 美濃焼の一種。天正末年頃から慶長十年(1605)頃まで生産された。名称は「瀬戸より来たる黄色のやきもの」という意味。当初の黄瀬戸は中国の青磁をモデルとしたとみられるが、後に華南三彩の影響を受けたといわれる。

美濃国の窯業

 美濃国の東濃地域(可児、土岐、恵那の3郡にまたがる地域)では、鎌倉期から室町期まで無釉の山茶椀が生産されていた。

 一方で尾張国の瀬戸では施釉陶器が生産されていたが、15世紀頃からこの施釉技術が美濃国に伝播。岐阜県土岐市内の瀬戸系中世施釉陶器窯跡8箇所の操業開始時期は、15世紀前半期までさかのぼる可能性があるという。天文年間、美濃国でも施釉陶器は「瀬戸物」と呼ばれていたことが史料にみえる*1

 元屋敷窯(岐阜県土岐市泉町久尻)では、天正年間前半から中頃(1570年代~80年代前半)、瀬戸から陶工たちが移動してきて窯を築いたという。彼らは当初、従来からの主要器種である天目茶碗、直径10cm程度で灰釉や鉄釉を施した小皿、擂鉢を専ら生産した。

 出土した当該時期の全破片数のうち、天目茶碗が35%、小皿50%、擂鉢4%と3器種で89%を占める。こうした傾向は美濃窯の他の窯でも大差ないとされる*2

黄瀬戸の登場

 そんな中、従来の美濃窯にはない新しい意匠をもつやきものとして、黄瀬戸が作られるようになる。岐阜県可児市の大萱窯下窯から、文禄二年(1593)銘黄瀬戸鉢が出土しており、この頃にはすでに黄瀬戸の生産が開始されていたことが分かる。

 天正年間末から文禄年間の元屋敷窯跡の器種組成をみると、天目茶碗25%、小皿33%、擂鉢14%の合計72%と3器種の比重は依然として高い。黄瀬戸は鉢類が5%、その他の器種で1%の計6%、瀬戸黒は1%と決して生産量は多くない。

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 陶工たちは生産の基盤を従来からの天目茶碗、小皿、擂鉢に置いていた。一方で京都を中心とする畿内の大都市で生まれた新たな茶陶の需要にも応える生産活動をはじめていたことがうかがえる。

 黄瀬戸の釉薬は従来の灰釉だったが、釉の調合や焼成具合によって釉肌が様々だった。主な器種は鉢や向付(むこうづけ)などの懐石用食器で、他にも花入、水指、香炉、香合などの茶陶が生産された。

 このうち懐石用食器をみると、平らな底部から胴部が短く立ち上がる銅羅鉢、口縁部を外に折り曲げた兜鉢、あるいは半筒形の向付というように新たな器種と器形が登場。この装飾には刻線文や印花を用い、さらに淡黄色の地に胆礬(硫酸塩鉱物の一種)による緑、錆による茶の点景を加えている。こうした意匠は、当時、中国南方からもたらされた華南三彩との共通点が多く、その影響も指摘されている。

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 また花入で立鼓形と旅沈形、香炉には筒形、瓢箪型が取り入れられる。香合はこの時から生産されるようになる。これら新しいやきものは、いずれも平面形は正円を基本とし、左右対称の端正な器形をもつ。型打ち技法も用いられており、平面形を入隅四方形に整えた向付、六角形を呈する杯などが作られるようになっている。

黄瀬戸の生産年代

 前述のように、大萱窯下窯(岐阜県可児市)から文禄二年(1593)銘黄瀬戸鉢の陶片が出土しており、黄瀬戸の生産開始は天正年間末頃と推定される。黄瀬戸の紀年銘資料はもう1点あり、慶長八年(1603)銘黄瀬戸向付(京都市上京区出土)が知られる。

 また大坂城跡では、下限を慶長三年(1598)に置くことができる豊臣前期の遺構や整地層から黄瀬戸が出土。文禄三年(1594)銘がある木製品を伴って黄瀬戸が出土した例もある。

 ただし、美濃窯で新たに志野が量産されるようになると、黄瀬戸は姿を消す。終焉の時期は元屋敷窯に初の連房式登窯が登場する慶長十年(1605)頃と推定されている。つまり黄瀬戸生産の最盛期は、ほぼ10数年に満たないという、きわめて短期間であったことになる。

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 なお京都市中京区三条通界隈の中之町遺跡では、遺物の約75%が黄瀬戸、瀬戸黒、志野、織部といった美濃窯の製品であり、特に元屋敷窯の製品と思われるものが多く含まれていた。遺物のやきものは使用された痕跡がないことから、同遺跡は瀬戸など美濃窯製品を中心とした茶陶を商う問屋跡だったと考えられている。消費地への黄瀬戸の輸出は、このような問屋・商人を介して行われたものと推測される。

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参考文献

  • 加藤真司 「志野と織部の生産について」(財団法人出光美術館 編 『志野と織部』 2007)
  • 財団法人出光美術館 編 『志野と織部』 2007
  • 土岐市美濃陶磁歴史館 編 『元屋敷窯と織部の時代』 2014
  • 西田周平 「桃山茶陶と近代陶芸の研究」 (2021年3月期 関西大学審査学位論文)

黄瀬戸水指 メトロポリタン美術館公式サイトより

*1:天文年間頃、飛騨国三木直頼禅昌寺に宛てたものの中に、「瀬戸物ふちかけ自岩村到着候を、此方皆々に出し候、一段重宝由申候云々」とある(「禅昌寺文書」)。

*2:ほぼ同時期に稼働した尼ヶ根2号窯では天目茶碗20%、小皿類56%、擂鉢6%を数え、合わせて82%となる。