戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

メトロポリタン美術館蔵「保元平治合戦図屏風」 ほうげんへいじかっせんずびょうぶ

 メトロポリタン美術館に所蔵される金地の六曲一双屏風。右隻に『保元物語』、左隻に『平治物語』の内容を描きこむもので、「合戦図屏風の最優作」とも評価される。作者は不明。制作年代については慶長五年(1600)から慶長十五年(1615)とされるが、寛永七年(1630)を下限とみる説も示されている。

保元の乱平治の乱

 メトロポリタン美術館蔵「保元平治合戦図屏風」(以下、メトロポリタン本と呼称)に描かれる『保元物語』と『平治物語』は、それぞれ保元元年(1156)七月の「保元の乱」と平治元年(1159)十二月の「平治の乱」という平安末期の京で起こった内乱を題材とした軍記物語である。両乱とも朝廷内の権力争いに起因して短期間の戦闘で勝敗が決した騒乱であり、結果として武士の台頭と平氏政権成立の契機となったとされる。

 この乱の顛末はのちに潤色され、源為朝源義平武勇譚や、源義朝の悲哀などが語られる中で『保元物語』『平治物語』がつくりあげられる。語り物として人々に広まるなか絵画化も行われ、現在最古の例としては13世紀後半頃に制作されたと考えられる「平治物語絵巻」が最もよく知られる。

メトロポリタン本の特徴と伝来

 前述のようにメトロポリタン本は、金地の六曲一双屏風の右隻と左隻にそれぞれ『保元物語』『平治物語』の内容を描く。その描写は画面隅々にまでわたり、濃密である。全体として統一がとれており完成度が非常に高い。このため力量をもった絵師による作品であることは間違いないものの、落款もなく、関連する文字資料も残されていないため、具体的な作者名は不明となっている。

 多くの「保元・平治合戦図屏風」が、主に合戦の場面のみを主題としている一方、本作は、乱の発端から顛末までを忠実に追い、絵画化しつくしている。描かれる場面数は非常に多く、右隻(『保元物語』)で57場面、左隻(『平治物語』)で102場面もおよぶ。

 物語の舞台は鳥瞰図的視点から描かれている。京の内裏、白河殿、三条殿、六波羅といった洛中、洛東を中心に、両隻ともに、西から東へ俯瞰した視点を取り、上杉本洛中洛外図屏風との類似性が指摘されている。主要な建物を拡大する手法も洛中洛外図屏風と共通しており、基本的な構図は洛中洛外図屏風からの転用であることを示唆している。

 ほかにも人物の姿の描写については、鎌倉期から南北朝期に制作されたと考えられる「平治物語絵巻」六波羅合戦巻断簡との類似が指摘されている。また建物の描写の正確さには見るべきものがあるとされる。特に寺社仏閣は詳細に描かれており、本作に携わった工房が建築描写に精通していたことがうかがえるという。

 伝来については、土佐光信筆として雲州松平家に伝わり、長尾欣弥氏旧蔵とされる。戦前には重要美術品に指定されていたが、戦後にメトロポリタン美術館に渡った。

後白河院御即位〉の描写から推定される制作年代

 メトロポリタン本の右隻第四扇下部〈後白河院御即位〉には、後白河天皇の即位の儀式(以下、即位儀と呼称)の様子が描かれている。この場面は、幡旗の形状や人々の配置、文官と武官の装束を描き分けるなど、非常に詳細に描かれており、全体として儀式の様子を再現するかのようだという。

 このため、メトロポリタン本の〈後白河院御即位〉の描写については、何らかの即位儀を描いた絵画作例への取材、あるいは儀式にまつわる有職に詳しい人物の関与が考えられている。その可能性を示唆するものとして、ネルソン・アトキンス美術館蔵「寛永御即位・新殿御移徒御即位図屏風」(以下、ネルソン本と呼称)がある。メトロポリタン本〈後白河院御即位〉とネルソン本右隻「寛永御即位図」には共通する内容が多く、強い関連性があることが指摘されている。

 ネルソン本が描く寛永七年(1630)の即位儀は、明正天皇即位式であった。明正天皇の父は後水尾天皇、母は徳川秀忠の娘和子であり、徳川家にとっては非常に重要な即位であったとみられる。『徳川実紀』には即位式に陪席した林道春が記録撰述し、それを狩野探幽が画図制作した記録がある*1。近世即位図のうち比較的早くに制作されたとされるネルソン本周辺は、先行する資料ないし絵画作例を模して制作されたというより、寛永七年の即位式の実見をもとに新たに記録的に制作されたと考えられる。

 これらのことから、ネルソン本系統の「即位図」をもとにメトロポリタン本〈後白河院御即位〉の場面が描かれたとの推定がなされている。ネルソン本には同じ構図、図様で描かれた屏風があることからも、この系統の作例がいくつか制作されていたことがうかがえるという。メトロポリタン本の制作に携わった人物も、こうした作例を目にしていたか、摸本、手本類を手元にしていた可能性があるとされる*2

 メトロポリタン本の制作年代について、先行研究では様式的分析により16世紀末から17世紀初め、特に慶長五年(1600)~慶長十五年(1615)あたりとされてきた。しかし上記のように、メトロポリタン本には寛永七年(1630)に執り行われた即位儀の「即位図」の影響がみられるため、少なくとも制作年代の下限は寛永七年(1630)頃となる。

参考文献

  • 下山來夏 「メトロポリタン美術館蔵「保元平治合戦図屏風」における即位の場面について」(『哲學』148 2021)

保元平治合戦図屏風 右隻 『保元物語
メトロポリタン美術館公式サイトより

保元平治合戦図屏風 左隻 『平治物語
メトロポリタン美術館公式サイトより

*1:ただしこの時の絵は現存していない。寛文三年(1663)霊元天皇の即位儀については、同じく狩野探幽が描いた草稿(東京藝術大学蔵)が残る。

*2:鹿苑寺の住持であった鳳林承章の日記『隔蓂記』には、毛利市三郎(高直)母が注文した「譲位・即位の図御屏風」を制作するための「絵の本」にしたいという絵師伊藤長兵衛の依頼に応じて、寛永二十一年(1644)五月十九日から十二月二十五日まで、良仁親王後西天皇)より屏風一双を借り出した記事がある。加賀前田家でも即位図を描かせており、大名家が制作に関わっていたことがうかがえる。こうしたことから、メトロポリタン本の制作者および絵師が制作にあたり即位図屏風を見ていた可能性が高いことが指摘されている。