戦国日本の津々浦々 ライト版

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伝土佐光信筆「四季竹図屏風」 しきちくずびょうぶ

 メトロポリタン美術館に所蔵される中世大和絵屏風。竹をテーマとし、ナズナや筍、雪などの景物を配して四季を表現している。制作年代は15世紀後半から16世紀前半とみられ、土佐派の絵師、特に土佐光信によって制作されたと推定されている。

「四季竹図屏風」の概要

 この作品は現在六曲一双屏風に仕立てられている。左隻には引き手跡や紙継があり、かつて障子に仕立てられていた痕跡とされる。本来屏風として制作された作品が、伝来の途中で左隻のみ一時障子として改装されていたと考えられている。

 全体の構図をみると、成竹の群れが一双の左右端および中央後方に、若竹が左右隻それぞれ中央前方に並列的に描かれる。その内三つの成竹群と一つの若竹群に季節の指標となる添景モティーフを配置。すなわち、春は菫とナズナ、夏は筍、秋は紅葉した蔦、冬は雪によって季節を表している。また、春、夏、秋、冬景はそれぞれ七本の主竹からなっている*1

 当作品と類似のテーマを扱った屏風は、15世紀には制作されていたことが知られる。『看聞日記』永享四年(1432)七月六日条に「屏風一双〈金瑩付/松四季〉」とあり、四季を備えた樹木をテーマとした屏風が存在したことが分かる。また『蔭涼軒日録』長享三年(1489)四月八日条にみえる「自上様金屏〈晝竹〉一双」は、竹を主体に構成された屏風であったとみられる。

竹図の普及

 竹というモティーフが古くから描かれていたことは、「玉虫厨子」須弥座の「捨身飼虎図」「施見聞偈図」「舎利供養図」に見られることから飛鳥時代までさかのぼる。また正倉院の「金銀平文琴」や「桑木阮咸」などの高士風の人物の背後にも竹が存在することが知られている。これら高士風の人物は竹林七賢図の人物の図像に近いことが指摘されており、竹が仏教説話や中国の隠遁者という聖性を帯びた題材と結びついていたことが推測されている。

 中国では五代・北宋の時代、竹が画題として特に発展していったことが指摘されており、雪竹や筍竹の画題は画史に散見する。天永三年(1112)頃の「西本願寺本三十六人集・元真集」や13世紀初とされる「吉祥天像厨子扉絵」(東京藝術大学蔵)にみられる竹雀では、その写実的な表現や雀という日常的なモティーフの選択に宋画の影響の可能性が指摘されている。

 絵巻において、竹林や竹叢の描写は1300年前後から増加するという。その要因として、中国の竹図や、竹を背後に描いた羅漢図などの舶載の増大の可能性が挙げられている。貞治二年(1363)の「仏日庵公物目録」には「墨竹二鋪〈李孤峯筆〉」「竹繪一對」が記載されており、少なくとも14世紀半ばには竹画が日本に舶載されていたことが知られる。

 またこの頃、中国元朝では李衎による『竹譜詳録』が刊行されている。同書では、彩色や水墨による竹の描法やマニアックなほどの種類が一部図入りで記され、さらに種類のみではなくその生長や気候による変化の様まで図解されている。このような版行が行われたことからも、当時の中国では竹に対する一般的な興味の増大と作画の普及があったと推定される。

日本における竹林増加

 日本では古代から中世にかけては、温暖な九州を除いては竹林はまだ全国的には広がっておらず、山野に見られたのは主に笹類であったという。また畿内やその周辺地域では、手入れの行き届いた竹林は庭園や特定の荘園で栽培されていたと推定されている。

 その後室町期にはいり、大型の竹林の造成が盛んになったことが指摘されている。竹を贈答する記事はすでに14世紀にみられ、その背景には竹林の造成が進んで竹の利用が活発化していたことがあるとされる。例えば京都の公家である山科家は、15世紀後半には良い竹林を所持していたらしく、盛んに竹の需要に応えたり、あるいは贈答し、また竹供御人が出入りしている(『山科家禮記』)。

 13世紀以前の絵巻では、竹はほとんど人家の庭に描かれていた。しかし上記の変化により、日本でも群生した竹林を目にする機会が大幅に増えたことが想定される。絵図だけでなく、現実でも美しい竹林を認識することが容易になったことが、絵画主題として竹が取り上げられる要因の一つともなったとも考えられている。

四季と竹

 四季と竹林の組み合わせについては、「四季墨竹図」の類の中国画の影響が指摘されている。現存する「四季墨竹図」は元から明初の作と推定されているが、同様の画題は宋代まで辿れるという。また前述の貞治二年(1363)の「仏日庵公物目録」には「四季四鋪」と記される作があり、これは四季を四幅に分けて描いていた可能性が高いとされる。

 なお、一種の植物の季節による変化を追った表現は、延慶二年(1309)完成の「春日権現験記絵巻」の藤に既にみられるという。すなわち一種の植物に四季を組み合わせる構成が、すでに14世紀初頭の大和絵系の画家によって取り上げられていたことが分かる。

土佐派の関わり

 「四季竹図屏風」の左右隻両端の上から第三紙目には、土佐光起(17世紀の土佐派の代表的な絵師)による土佐光信筆の紙中極め*2がある。土佐光信は室町中期から戦国期にかけて活躍した土佐派の絵師であり、光信あるいはその周辺作と目される絵巻などには、竹図屏風がかなり散見されるという。

 また「四季竹図屏風」は、「芦屋窯下絵図巻」(福岡美術館蔵)中の〈四季竹図〉に関連し、竹という単一テーマや景物による四季表現が共通することが指摘されている。「芦屋窯下絵図巻」は土佐家伝来であり、土佐家資料(京都市立芸術大学蔵)中にその写本が見出される。両作品は描写スタイルが共通することなどから、同一の画家の手によるものとの推定がなされており、あわせて土佐光信による作である可能性が高いことも指摘されている。

参考文献

四季竹図屏風 右隻
メトロポリタン美術館公式サイトより

四季竹図屏風 左隻
メトロポリタン美術館公式サイトより


*1:ただし春の一本は根で示されている。

*2:紙中極(しちゅうぎめ)とは、落款のない書画の一端に、鑑定人が誰々の真蹟に相違ない旨を記して署名捺印してあるもの。