戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

コッゲ船 こっげ せん

 北ヨーロッパを起源とする1本マスト、1枚横帆の貿易船。全長は約30メートル。コグ cog あるいはコッグとも呼ばれる。13〜14世紀、バルト海や北海の交易で用いられた。14世紀には地中海でも採用され、15世紀に現れるキャラック船の源流の一つとなった。

新しい大型船の出現

 12世紀中頃、北ヨーロッパの海では、二つの異なった型の船舶が運行していた。一つは、櫂と帆を使用し、喫水が浅いヴァイキングの小型船。もう一つは、大型で速度は遅いが安定性に優れていた西ヨーロッパの帆船だった。この二種類の船はあまり積載能力がなく、30トンを超えることはほとんどなかったという。

 そんな中、12世紀末ごろに北欧で大型船が出現し、コッゲ congo の名で呼ばれるようになった。1188年(文治四年)、どれもが160トン以上と推定される4隻の大型船がケルンから出航し、十字軍の参加者を戦地に輸送したと報告されている。1206年(建永元年)に年代記作者ハインリヒ・フォン・レットラントは、2隻のコッゲ船が到着したので、リーガ*1が飢饉から救われたと報告している。

 このような新型船の積載能力は、やがて200トンを超えたという。13世紀から14世紀にかけて、コッゲ船は典型的なハンザの船となった。エルビングやストラルスンド、ダンツィヒなどのハンザ加盟都市の当時の印章(シール)にも、その姿が描かれている。

コッゲ船の概要

 コッゲ船は、平均して全長30メートル、船幅7メートル、喫水は3メートルであったと推定されている。船体は、屋根瓦のように板を重ね合わせて建造され、キール(竜骨)と船首材はまっすぐだった。帆を一つだけ備えたコッゲ船は、比較的扱いやすく、風に逆らって進むことが可能であり、とりわけ13世紀初頭以降に、舷側舵に代わって船首舵になったので、順風で時速10〜15マイルという速さになった。

 1962年、ドイツのブレーメン近郊・ウェーザー川の川底からコッゲ船の残骸が見つかった。使用されていた木材の年輪学的な分析から建造はおよそ1380年頃とみられ、その要目は「全長23.37メートル、全幅7.62メートル、型深さは船尾楼と巻揚げ機(キャブスタン)を含めて7.02メートルであった。全体的に甲板が張られていて、船尾には船体と一体化した楼閣を備え持っていた。

 なお、コッゲ船の起源は明らかではないが、ネーデルラントのフリースラント人によって生み出されたとの説がある。ネーデルラントでは、コッゲ船に課された税が、1163年(長寛元年)のニウポールトの規約の中で、さらには10世紀以降のユトレヒト司教区でも記されており、古くから大型船が確認されている。

地中海への広がり

 13世紀後半、ジェノヴァカスティリャバスクなどが、ジブラルタル制海権イスラーム側から奪取したことにより、大西洋と地中海の直接的な航海が可能となった。これにより、14世紀、北方の造船技術が地中海に入って来るようになった。イタリア・フィレンツェのジョヴァンニ・ヴィッラー二は、1304年(嘉元二年)の記述の中で、以下のように記している。

同じ頃にガスコーニュ地方のバイヨンヌの者達が、"cocca"と呼んでいる船に乗って、ジブラルタル海峡を越え、我々の海に来て略奪行為を行い、莫大な損害を与えた。この時からジェノヴァ人、ヴェネツィア人、カタロニア人は、航行が安全で費用の安い"cocca"で航海するようになり、彼らの大型船による航海を放棄した。これは、我々の海における船の大きな変化であった。

 フランス南西部のバイヨンヌ出身者が「コッグ(コカ)」と呼ばれた船で地中海に入ってきたことを契機として、ジェノヴァヴェネツィアバルセロナ(カタロニア)の商人たちは、この北方から来た新型船を採用。地中海で従来運用されてきた2本マストのラティーン帆装船は、コッゲ型の船に置き換えられることになった。

 実際、13世紀のスペインの写本「賢者アルフォンソのラピドリオ」には、2本マストのラティーン帆装船が描かれているが、1388年(嘉慶二年)に完成したスペインの写本には、コッゲ船によく似た船が描かれている。画家が日常で目にしていた船舶が、大きく変化していることがうかがえる。

新たな船の登場

 一方、14世紀には別の型の船、ホルク船 Holkがハンザ圏に広まった。もともとホルク船は、それほど大きくはない平底の輸送船だった。しかしサイズは次第に大きくなり、積載能力*2にも優れていたので、15世紀の間にコッゲ船を排除するに至った。

 さらに15世紀以降、イタリアと大西洋を起源とする、さらに大型のキャラック(カラヴェル)船が登場した。キャラック船は、1本マストの北方船をもとに南ヨーロッパ諸国で発達した3本マストの船で、ヨーロッパ全域で用いられるようになる。上述のフランス南西部・バイヨンヌにおいても、イングランド王ヘンリー5世の発注で、キャラック船とみられる船が建造されており、1422年(応永二十九年)に王が死去したため、全て売却されている。

 1462年(寛正三年)には、ラ・ロシェル*3のキャラック船「サン・ピエール号」がダンツィヒ港で船長によって放棄されている。この船は桁外れの大きさを誇っており、ダンツィヒではイングランド人に対抗するための私掠船に改装され、その大きさがいたる所でセンセーションを巻き起こした。ただ17世紀までは、ハンザの大型船の主要な型はホルク船であり続けた。

参考文献

  • フィリップ・ドランジェ(監訳 高橋理) 『ハンザ 12ー17世紀』 みすず書房 2016
  • ロモラ&R.C.アンダーソン(訳 松田常美、監修 杉浦昭典) 『帆船6000年のあゆみ』 成山堂書店 1999
  • 清水廣一郎 「中世ガレー船覚書」(『一橋論叢』第76巻 第6号 1976)

コグ船 Bernd MarxによるPixabayからの画像

*1:ハンザ都市の一つ。現在のラトビア共和国の首都。

*2:ホルク船は、300トンあるいはそれ以上さえも輸送できたという。

*3:フランス西部・ビスケー湾に面する港町。