戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

狩野元信筆「十僧図」 じゅうそうず

 足利義政晩年の邸宅・東山殿の東求堂(持仏堂)内部の襖に描かれた襖絵。足利将軍家の御用絵師・狩野正信によって制作された。将軍の側近でもあった禅僧・亀泉集証の日記『蔭涼軒日録』に完成までの経緯が詳しく記されている。

東山殿の造営と持仏堂襖絵の制作開始

 東山殿の造営は文明十四年(1482)にはじまり、義政が死去する延徳二年(1490)まで続けられた。文明十五年(1483)に常御所が完成し、六月二十七日に義政はここに移っている。

 文明十七年(1485)十月二十四日、阿弥陀仏を安置する持仏堂の襖十枚が制作されることになった。画題として十牛図が考えられたが、弥陀に関する十の機縁はないかという事で、足利義政は五山第一の碩学である横川景三と相談するよう亀泉に命じている。

 十月二十九日、弥陀のまわりを十僧が囲撓して、おのおの宝樹下に坐す図柄が採用された。狩野正信に試しに描かせてみることになり、正信には襖の画面と同じ寸法の紙が与えられた。義政は亀泉に対し、夏珪*1の筆様か、馬遠*2の筆様か、そのほか何の筆様でも良いから、正信に一枚描かせるように指示している。

 三日後の十一月二日、正信は二幅の草案を提出。それとともに「馬遠様も良いが、すでに(同じ東山殿の)西指庵の「画様」が馬遠様なので、今度は李龍眠*3様が良いのではないか」と意見を述べている。また将軍家所蔵の馬遠画と李龍眠画を「画様」の参考として借りたいこと、「図様」の「本」として九品曼荼羅を取り寄せてほしいと要望した。

 十一月二十四日、正信の希望通りに将軍家の御倉から李龍眠筆の文殊維摩と李迪筆の牛二幅の三幅一対が画本として出され、正信に渡されるよう手配された。十二月一日、九品曼荼羅が南御所に返されており、図柄は既に決定していたとみられる。

完成までの過程

 十二月十四日、相阿弥*4 が亀泉のもとへ草案を作るための紙を持参。翌日、正信のもとへ届けられた。

 十二月十八日、亀泉集証、横川景三、相阿弥、狩野正信の四人が、十僧の画様について協議。二十八日、義政に十僧の草案が提出された。義政は二三の注文をつけ、さらに画本として李龍眠の老子青牛図をとり出すよう相阿弥に命じている。

 文明十八年(1486)正月十七日、義政は十僧の草案十枚を正信に返すとともに、この襖絵の入る持仏堂(東求堂)を、未だ造作途中ではあったが、ともかく正信に見せるよう下命。正月二十日、正信と亀泉は持仏堂を拝見している。

 正月二十八日、正信は再び十僧図の草案を提出。義政は以前の十幅ともども受け取って検討した。

 二月になると十僧図とは別に十楽図の案が浮上。二月十二日、亀泉は正信から十僧、十楽の件について相談を受け、同席した横川景三や、後に正信が肖像を描くことになった桃源瑞仙も意見を述べている。

 翌日の二月十三日、義政からは十僧図の図様が画一的で変化に乏しいとする意見もあったが、十四日、結局十僧図に落ち着いた。

 三月二十四日、狩野正信は「十僧図」十枚を完成させて持参。足利義政は満足し、俸給千疋が支給された。

筆様制作

 「筆様」や「様」という言葉は、絵の様式、画風を指す語として用いられており、「本」や「画本」という言葉は絵の様式と図柄の両方に関する「お手本=典拠」という意味で用いられたと考えられている。

 夏珪と馬遠は中国南宋時代、李龍眠は両名よりも少し前の北宋時代の画家であり、室町期の日本で最も人気のある中国画家であった。この十僧図の制作過程からは、注文主が画家に対し、例えば「夏珪様(夏珪風)で」という形でコミュニケーションをとっていたことがうかがえる。

参考文献

銀閣寺 東求堂

*1:中国の南宋時代の画家。

*2:中国の南宋時代の画家。

*3:中国の北宋時代の画家。

*4:将軍の同朋衆。府庫の唐物の管理者であり、座敷飾の専門家でもあった。