戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

宮内 みやうち

 備後一宮吉備津宮の門前町。吉備津宮は12世紀には史料にみえ、中世を通じて備後国内で広く信仰を集めた。江戸初期の境内図には、門前に町場が形成され、大工や鍛冶などの職人が住んでいたことが描かれている。

備後一宮吉備津宮

 吉備津宮の文献上の初見は鳥羽院政期の久安四年(1148)二月で、京都祇園社の法華八講会の料所として備後国吉備津宮を寄付したことがみえる(「八坂神社記録」)。

 永万元年(1165)六月付の「神祇官年貢進納諸写注文写」によると、備後国では吉備津宮のみが神祇官への年貢進上を命じられている(「宮内庁書陵部蔵永万文書」)。同注文写にみえる諸社は各国の一宮、二宮など有力神社であることから、この頃すでに備後国一宮としての勢力を有していたとみられる。

 鎌倉後期の弘安十年(1287)、全国を遊行した時宗の開祖一遍が「備後乃一宮」(吉備津宮)に参詣。そこでは一遍のために特別な舞楽「秦王破陣楽」*1が催されたという(『一遍聖絵』)。また嘉元四年(1306)十月、尾道浄土寺で金堂、食堂などの堂宇造営が成って落慶法要が営まれた際、備後国の「吉備津宮伶人」が舞楽を奏している(「浄土寺文書」)。吉備津宮の伶人舞楽の楽人)が備後国で広く活動していたことがうかがえる。

 なお吉備津宮には4口の毛抜形太刀が伝わっており、舞楽太刀として使用されたと推測されている。そのうち2口は「備州尾道五阿弥長行天文二十四年(1555)六月吉日吉備津宮奉寄進御太刀」の銘がある。もう2口は「正光」の銘があり、南北朝期に活動した三原鍛冶である三原正光の作とみられる。

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 大永二年(1522)十月十七日、備後国西篠保(現在の庄原市西城町)から金幣(金属製の御幣)が奉納された。同日付で藤原朝臣盛次という人物からも金幣が奉納されている。西篠保は出雲国との境も近い備後国最北部であり、吉備津宮への信仰が一国全体に及んでいたことがうかがえる。

 備後国の有力者も吉備津宮の保護につとめた。天文九年(1540)十月、山名理興が「社務大願主」として銅鐘を寄進(『福山志科』巻18品治郡宮内村)。永禄八年(1565)には毛利氏により「備後一宮棟上」が行われている(『閥閲録』巻84)。

古図に描かれた町屋

 元和元年(1619)、徳川氏の譜代家臣である水野勝成備後国福山に入封。勝成隠居後に社殿の再興が進められ、慶安元年(1648)に本殿をはじめとする主要な社殿が竣工した。

 吉備津神社には「紙本墨書備後国一宮大明神図」「紙本墨書吉備津神社古図」「紙本淡彩吉備津神社古図」の3幅の境内図が伝わっている。これらは慶安元年の社殿再建前の姿を描いていると考えられている。

 このうち「紙本墨書吉備津神社古図」では、吉備津神社門前に五家を一つの単位として町屋が描かれ、大工、鍛冶、塗師等の職種が付箋で張り付けられている。町屋には吉備津宮に関わる職人たちも住んでいたことがうかがえる。また御池には5つの橋が架かり、その北側中島には三重塔も建っていたことが分かる。

 なお文化六年(1809)の序がある『福山志料』の巻18品治郡宮内村の項には、「今ノ町名」として、谷小路、砂入小路、中市、塔畑、蔵下、有木町、蔵本小路、新町、三王小路、館、上池小路が記されている。

参考文献

吉備津神社鳥観図 『福山志科』巻34
国立公文書館デジタルアーカイブ

吉備津神社境内図 『福山志科』巻34
国立公文書館デジタルアーカイブ

大永二年の銘がある金幣の図 『福山志科』巻34
国立公文書館デジタルアーカイブ

吉備津神社の本殿。水野勝成の再興事業により慶安元年(1648)に竣工した。

吉備津神社本殿まえにある六角燈籠。慶安元年(1648)に水野勝成によって寄進された

吉備津神社の拝殿。本殿と同じく慶安元年(1648)の竣工。

拝殿の南側の石垣。円型の石。石工の技がひかる

吉備津神社の拝殿から見た境内。中央の神楽殿は寛文十三年(1673)の建立。

大鳥居と下随神門。大鳥居の柱には慶安元年(1648)の銘文がある

大鳥居の扁額の文字は、尭然法親王後陽成天皇の子)の揮毫と伝えられる

吉備津神社大鳥居前の通りの町並み

吉備津神社大鳥居前の通りの町並み

吉備津神社大鳥居前の通りの町並み

吉備津神社大鳥居前の通りの町並み

御池

吉備津神社から見た桜山城跡


*1:中国唐朝の第二代皇帝である太宗・李世民の時代に製作された四つの破陣楽のうちの一つ。太宗が秦王であったころに、劉武周を破った様子を舞にしている。