戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

備中鉄 びっちゅうてつ

 備中国で産出した鉄。中世、同国の鉄は全国的な名産品であった。室町期、摂津国の商人が新見荘で「くろかね(鉄)」を質物としており、畿内の商人が鉄の買付に訪れていたことが知られる。

新見荘の「くろかね」

 寛正四年(1463)二月二十六日、備中国北部に位置する新見荘の田所・金子衡氏は、自身が送った割符が換金できないとして、東寺から度々問い合わせを受けていた。衡氏が調べたところ、この割符は国元で内々に扱った摂津国中嶋の商人のものであった。割符を組む際に質物として「くろかね(鉄)」をとどめ置いてあるので、割符が換金できない場合は、これを売却して東寺へ進上する、と回答している。

 上記の摂津国中嶋の商人は、畿内の商品を携えて新見市庭を訪れ、その商品を販売して得た銭貨と、新見市庭で割符を発行して得た銭貨によって、新見市庭で鉄を購入。これを畿内および他地域でこれを販売するという営業形態をとっていたと考えられる。新見市庭で市場在家を持っていた在地有力商人の中には、原料鉄を専門的に扱う者もいたのかもしれない。

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備中国の特産品

 備中国は古くから鉄の産地だった。平城京出土の木簡により、奈良期には備中国が鉄を税として納めていたことが分かっており、10世紀前半においても、備中国は鍬鉄を納める国の一つだった(『延喜式』)。南北朝期に成立した『庭訓往来』では、「備中鉄」が諸国名産の一つに挙げられている。

 産地として新見から約15キロメートルほど北方の千屋が知られる。また高瀬・吉野地方でも鉄生産が盛んであったという。

備中国と鉄製品

 備前国との国境に近い備中国の阿曽村は、鋳物師の活動が古くから知られており、その原料は千屋鉄であったとされる。

 康永元年(1342)の年記をもつ『備前国一宮社法』によれば、阿曽の金屋村から春秋の2回、「たゝら(鞴)役」および「かまやく(釜役)」として、「うしくわ(牛鍬)のへら(箆)」「同さき(先)」「ごとく(五徳)」など大小33個、「はかま(羽釜)」2個といった鋳物製品が公事として奉納されていた。大永五年(1525)の「吉備津神社坪付注文」にも、「あそ(阿曽)のいもし(鋳物師)」が毎年五升鍋を吉備津神社に備進していたことがみえる。

 11世紀頃に成立した『新猿楽記』では、諸国の名産物を列記する中に「備中刀」が挙げられている。平安期から南北朝期にかけて高梁川下流域を中心に繁栄した青江派も、千屋鉄を原料として刀剣を鍛造したという。

 新見荘では、文永期の東方地頭方の田畠に「鍛冶給」や「イモノヤ」の「タクミ紀六郎」の名が記されている。彼らについては、千屋鉄を原料とする加工品を生産していた可能性が指摘されている。とすれば新見市庭では、前述の原料鉄だけでなく加工品も販売されていたのかもしれない。

参考文献

備中国新見庄田所金子衡氏書状 寛正4年2月26日
京都府立京都学・歴彩館 東寺百合文書WEB から)

庭訓徃來 …奥州金備中鉄越後塩引… 国立国会図書館デジタルコレクション