戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

新見 にいみ

 備中国北部の荘園である新見荘にあった市庭町。領家方と地頭方の両地域にそれぞれ市庭在家をもつ市庭が形成されていたが、領家方の市庭が規模が大きかったと推定されている。荘園領主である東寺に多くの文書が残されていることも特徴。

東寺領新見荘の成立

 正中三年(1326)、後醍醐天皇は最勝光院の執務職を東寺に寄付。この中に新見荘の本所職*1も含まれていた。元徳二年(1330)正月になると、天皇は東寺領であった周防国美和荘の替えとして、新見荘を永代にわたって東寺に寄付することとし、翌年には後伏見上皇もこのことを認めた。この時、新見荘の領家職が小槻氏から取り上げられ、東寺に寄進された。

 元弘三年(1333)九月、後醍醐天皇は新見荘の地頭職をも東寺へ寄付している。このようにして、東寺は、新見荘の本所、領家、地頭職ともに獲得した。しかし南北朝期になると、領家職をめぐって元の領家である小槻氏との対立抗争が勃発。新見氏*2や多治部氏ら現地勢力を巻き込んで展開することになる。

 領家職が完全に東寺に帰属するのは50年後の明徳元年(1390)十一月。小槻氏は領家職の競望を絶つことを約束し、その条件として、毎年の年貢・雑物の京都に到来したうちから、その一部を受け取ることとなった。

領家方の市庭

 新見荘の市庭は、鎌倉後期には成立していた。文永八年(1271)に作成された「領家方里村分正検畠取帳案」という史料に「市庭分」がみえる。この史料は検注(土地調査)の日順に従って記載されており、二月十一日は由世から開始され、由世*3、市庭分、大田*4と進み、大田の途中で二月十二日になっている。このことから領家の市庭は、由世と大田の中間、今日の三日市付近に当たると考えられている。

 市庭分の畠は、西方と東方とに分けて記載されている。西方は11筆、13箇所の畠が、11名によって名請(みょうけ)されており、東方は18筆、18箇所の畠が15名で名請されている。路の西側に13軒、東側に18軒の市庭在家*5が立ち並び、その後方に、それぞれの在家の畠が付属していたと推定されている。

地頭方の二日市庭

 地頭方の市庭の初見は、正中二年(1325)に作成された、地頭方の「田地実検取帳」、「同名寄帳」、「山里畠実検取帳」ならびに「同名寄帳」などにみえる。この時の「田地実検取帳」も検注の順番に従って記録されており、四月四日から五日にかけての検注に「井ノ尻 二日市庭 常念」「二日市庭 念法」「車カセ(瀬) 市庭明心」の記載がある。また「山里畠実検取帳」には「二日市庭溝口 又三郎」などがある。

 これの史料により、地頭方の市庭は「二日市庭」と称され、その地域は、地頭政所に近い井尻、車瀬、溝口などに立地していたことが分かる。この地は、谷内川が高梁川と合流する地点であり、水運を意識しての立地であったと推測されている。

 二日市庭推定地の発掘調査では、鎌倉・室町期および江戸期の焼物が遺物として出土。遺構として柱穴および土壙が発見されている。このことから、この地域に、高梁川沿いに定設的に建物群が存在していたことが分かる。

 元弘三年(1333)、二日市庭は領主から市庭在家として把握されている。市庭の管理・統制は、市庭保の紀藤ニ入道によって行われた。紀藤二入道は市庭沙汰人とも称され、荘園領主から給田を与えられていた。

 名請地は屋敷分と後地分に分割され、一軒の屋敷の面積は一律に10代であった。後地には1代に100文を課税した。地頭政所に近い高梁川沿いには、10代均等に区画された14軒の在家が立ち並び、家の後方には、おそらくは荷積み・荷揚げなどに使用される、後地と呼ばれる明地を備えた市庭集落が存在していたとみられる。

 元弘年間、市庭関係者は22名に増加していた。しかし元弘三年から1年後の建武元年(1334)に作成された「地頭方損亡検見并納帳」によれば、屋敷数は12軒(屋敷分の総面積は同じ)、名請人は12名に減少している。特に注目すべき点として、名請人のうち元弘と建武では、ほとんどの人物が入れ替わっており、「馬入道」という人物だけが両者に共通してみえる唯一の名請人となっている。

 この時の「地頭方損亡検見并納帳」には、「商人多少によって、毎年、用途足不同」との注記がある。市庭在家の商人は年々の出入りが激しかったことがうかがえる。なお建武元年(1334)は、前述のように、後醍醐天皇が新見荘地頭職を東寺に寄付した年であり、急激な政治変動が影響した可能性もあるという。

市庭の賑わい

 新見荘の市庭では和市が立ち、年貢として納入された米、大豆、栗、蕎麦が売却された。建武元年(1334)の「地頭方損亡検見并納帳」には、十一月二十三日、十二月三日、正月二十三日に和市が開かれたことが記録されている。この和市は「三」の日に開かれていることから、後に三日市と呼ばれた領家方の市庭で年貢を換金していたとみられる*6

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 寛正二年(1461)十月、東寺の上使として新見荘に入った乗観祐成と乗円祐深は、同年十一月十五日に東寺に宛てた報告書を作成。その中で領家方の市庭について、下記のように述べている。

一、当庄に市は之有、半分地頭、半分御領、国衙・他国守護方入合

 領家方(東寺)と地頭方が共同で支配しており、国衙備中国国司)や周辺諸国の守護の勢力も入り込んでいた。新見荘の住民だけでなく他所からも人が集まり、賑わいを見せていたことがうかがえる*7

 新見荘の市庭では、日常の食料や生活用品も売られるようになっていた。応永八年(1401)の「領家方所下帳」には、「いちハ(市庭)にてさけ(酒)」「たぬきさけ(酒)いちハ(市庭)にて」「いちハ(市庭)にてさけさかな(酒・肴)」「いちハ(市庭)にてたうふこうお(豆腐・小魚)」「いちハ(市庭)にてたきき(薪)」など、市庭での種々の買い物が記されている。

 さらに、茶・麦・豆・魚・鯛・塩・大根・索麺・狸昆布・和布・味噌・兎などの食料品、御器・折敷(おしき)・盥(たらい)・筵(むしろ)・・狸皮・鼎(かなえ)・火箸・炭・掻敷・染皮などの日用雑器が、市庭で求められた。

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 市庭にはまた、紺屋などの職人もいた。「うちかけ(打掛)染賃」「こん(紺)の代」などの記載がみられる。二日市庭の名請人であった前述の「馬入道」は、運送業に関係した商人と考えられる。そのほか遊芸の者も訪れており、史料には「ゑとき(絵解)」「千寿万歳」「ありきめ(歩女)」「猿楽」「シラヒヤウシ(白拍子)」などがみえる。

割符取引

 中世、荘園からの年貢は現物と代銭によって納入された。室町期になると、地方の荘園から都の荘園領主に銭を送る代わりに、手形による遠隔地取引が発達。その取引に使用された手形が、割符(さいふ)だった。

 新見荘では、応永十八年(1411)に割符による年貢納入が初めて史料にみえる。割符の発行人は畿内の問丸と関係ある商人であった。彼らは新見荘の市庭で年貢米などを購入し、代金の支払いとして、代金相当の金額と支払者とを記した割符を荘官に渡した。荘官は上京の人夫に託して割符を東寺へ送った。

 文正二年(1467)二月、摂津国山崎ひろせ(広瀬)の弥左衛門助年は「ひろせ大もんしや(広瀬大文字屋)」宛の割符を、同年十二月には和泉国さかへ(堺)二郎四郎が「きたのしやう(北庄)ひん中や(備中屋)ひこ(彦)せつ」*8宛の割符を、新見荘の市庭から発行している。

 そのほか、「中嶋のあき人(商人)」の割符、「つ(摂津)の国わたなへ(渡辺)あき人」の割符、「はりま(播磨)のあき人」の割符、「三条五郎二郎」の割符などが出された。支払先は、「京にてハあね(姉)か小路と三条との間、かさや(笠屋)の四郎三郎」「あまさき(尼崎)の大物の四郎兵衛」などの名が見える。

 割符の中には種々の行き違いから無効(違割符)となるものもあった。違割符(ちがいさいふ)が発生すると、東寺は新見荘へ送り返し、三職(田所、公文、惣追捕使)の責任に置いて弁償させた。寛正四年(1463)二月、田所の金子衡氏は、摂津国中島の商人の違割符を扱った事件について、割符を組む際に「くろかね(鉄)*9を質物として止め置いたので、割符が換金できない場合はこれを売却して東寺へ進上する、と述べている。

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関連人物

関連交易品

参考文献

新見庄三日市庭跡。真福寺の山門付近に市庭跡を示す石碑がある。

高梁川

高瀬舟発着所。金谷橋の東詰には河岸には高瀬舟の発着に使われた石組や石段が残っている。

新見御殿町の町並み。太池邸。

新見御殿町の町並み。

新見御殿町の町並み。金村屋麹店。

船川八幡宮。戦国期、鳶ヶ巣城の城主となった尼子家臣・徳光兵庫守が深く信仰し社領を寄進したと伝えられる。

城山公園から見た新見三日市周辺の町並み。

新見銀座商店街。

新見庄領家方の地。高梁川と為谷川の合流点付近の小高い丘に新見荘領家方の政所があったと考えられている。領家方の市庭とみられる三日市からは少し離れている。

新見荘地頭方の政所跡。高梁川と谷内川の合流点付近の微高地にあったと考えられている。一段低い水田が堀跡とされる。

新見荘二日市庭があったと考えられているあたり

*1:正中二年(1325)作成の最勝光院領荘園目録案によれば、年貢として油五石、綾被物二重だけであった。

*2:文正元年(1466)九月の新見賢直言上状案によれば、貞応元年(1222)に賢直の先祖の治部丞貞満が、承久の乱の恩賞として新見荘地頭職を得たのだという。一時は地頭職を失った新見氏であるが、建武三年(1336)、足利尊氏によって新見九郎貞直が地頭職を回復している。

*3:新見荘の南端で、今日の新見市役所のある辺り。

*4:今日のJR新見駅南裏辺り。

*5:市庭分に記載のある名請人の中には伝統的な名主の名があり、全て商人であるかは不明であるとされる。ただし、王藤二入道、松十郎、弥三郎、弥太郎、藤平二、六郎入道、上女、五郎入道、藤四郎などは、あるいは市庭の商人であったかもしれないという。

*6:地頭方は「二」の付く日に二日市庭に物資を集め、翌日の三日市庭(領家方市庭)でそれを売りに出したとも考えられている。二日市庭で集めた物資は、舟に積み込まれ、高梁川を南に下り、領家方の市庭に運ばれたのかもしれない。

*7:一方で、三職(田所、公文、惣追捕使)たちは、戦いが起こるとしたら、この市庭からであろうと予測していたという。

*8:堺の備中屋については、永正七年(1510)、明に渡航した北庄の備中屋宣阿と同族であろうと考えられている。

*9:新見荘では鎌倉期から、北辺の高瀬、吉野地方で鉄の生産が盛んだった。