戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

ビリヤニ Biryani

 インドやその周辺国で食べられている香辛料とお肉の炊き込みご飯。ペルシア(イラン)料理のプラオ、あるいはプラオが元となった中央アジアのポロなどが源流ではないかとされている。1641年(寛永十八年)、ポルトガル人がパキスタン北部の都市ラホールの市場でビリヤニらしき料理を目にしている。

ペルシア料理とムガル朝

 1540年(天文九年)、インドのムガル朝アフガニスタンから興ったスール朝に敗れて一時的に滅亡。皇帝フマーユーン(初代皇帝バーブルの子)はペルシア(イラン)のサファヴィー朝への亡命を余儀なくされた。その後の15年間、フマーユーンはサファヴィー朝の援助を受けながらアフガニスタンで戦い、1555年(弘治元年)にスール朝を滅ぼしてインドへと帰還してムガル朝を再興した。

 ペルシア文化に傾倒していたフマーユーンは、帰国した際にペルシアの料理人を大勢連れてきた。彼らにより、アッバース朝以来発達してきたペルシア料理がインドに持ち込まれたという。

 ペルシア料理のメインディッシュがプラオだった。ペルシアでは大麦と小麦が主食であり、インドなどから輸入されていた米は、割合に貴重であり贅沢品とみなされていた。17世紀中頃にインドを旅したフランスの宝石商ジャン・バプティスト・タヴェルニエは、ペルシアの人々がアーグラの南西でとれる米を特に好んでいたと記している。

 ペルシアでは多くのバリエーションのプラオが生み出され、さらにインドを含む多くの地域に広まっていった。トルコでは「ピラヴ」となり、中央アジアでは「ポロ」、フランスでは「ピラフ」、スペインでは「パエリア」となったという。

 ハンガリー出身の東洋学者アールミン・ヴァーンベーリは、1860年代に中央アジア一帯を旅してまわったが、プラオの作り方について下記のように記している。

スプーン数配分の脂身を鍋で溶かし、それがかなり熱くなったら、小さな塊に切り分けた肉をなかに入れる。なかば火が通ったら、水を指三本分くらいの深さまで注ぎ、肉がやわらかくなるまでゆっくり煮る。
それから、胡椒と薄切りのニンジンを加え、これらの材料の上に、粘り気のある部分を除いた米を敷き詰める。さらに水を加え、米が水を吸ったらすぐに火を弱める。そして、しっかり蓋をした鍋は、米と肉、ニンジンが蒸気ですっかりやわらかくなるまで、真っ赤に燃えた石炭の上に載せておく。
30分後に蓋をとり、料理は皿に層ごとに分けたまま盛る。まず脂を塗されたご飯を敷き、その上にニンジンと肉を載せる。そこで食事が始まる。

 ヴァーンベーリはこの料理を抜群の味としている。

モンゴル・ブリンジ

 ムガル朝では三代目皇帝アクバルの時代に、中央アジアムガル朝の故地)およびペルシアとインドの文化の統合が進んだ。この影響は料理にも及び、ペルシアのプラオはインドの香辛料の効いた辛い料理と出会い、ムガル料理の典型となるビリヤニが生まれたとされる。

 ビリヤニは、ムガル朝五代目の皇帝シャー・ジャハーンの時代にはムガル領内に広まっていた。1641年(寛永十八年)、ポルトガル人のセバスチャン・マンリケは、ムガル朝の都デリーから約400キロメートル北西の都市ラホールで、ペルシアのプラオと区別された米料理を目にしている。

食物をそそるおいしい食べ物で埋め尽くされた市場……中でも食べ応えがある主要な食べ物は、よい香りのする贅沢なモンゴル・ブリンジとさまざまな色のペルシアのピラウだ。

 ブリンジは「食べ物」のような意味で、またここで言う「モンゴル」はムガル人を指す。このことから「モンゴル・ブリンジ」とは、ペルシアのプラオとは異なるムガル人の米料理、すなわち(初期の)ビリヤニだったと推測される。

参考文献

美味しそうなビリヤ二のイメージ from 写真AC