戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

ヴォイニッチ手稿 Voynich Manuscript

 20世紀前半、イタリアの僧院で発見された書物。15世紀から16世紀ごろに作成されたとみられるが、未知の文字で記述されており、挿図には未知の植物などが描かれている。神聖ローマ皇帝の蔵書となった後、17世紀に入って錬金術師や学者たちがその解読に挑んだことが知られる。

謎の手稿

 ヴァイニッチ手稿は、1912年にウィルフリッド・ヴォイニッチによってイタリアのイエズス会の僧院ヴィラ・モンドラゴーネで発見された。大きさは225mm×160mmで、102葉の羊皮紙から構成されている。

 本文はヴォイニッチ文字と呼ばれるアラビア数字やアルファベットに似た未知の文字によって、一段組みで書かれている。類似の言語や文字の資料は、現在見つかっておらず、また特定の言語との同定や関連づけに成功した既往研究もない 。

 ほとんどのページには、緑、茶、黄、青、赤のインクを使って彩色された素朴で奇妙な挿図があり、ページ大の場合も多い。こうした挿図は本文と一体となってレイアウトされており、後世の挿入である可能性はない。

 挿図の内容は、植物、天文学、水浴びをしている小さな裸の女性たち(ニンフ)、十二宮図、薬草の調合用壺などのように見える。ただし、数多くの植物の挿図があるが、実際の植物などと明確に同定できる植物はただの一つもない。

 現在のところ、ヴォイニッチ手稿の既往研究は、暗号書とする説、未知の言語あるいは人工言語による手稿とする説、そして「捏造文書」*1とする説*2の3つに大別できるという。

神聖ローマ皇帝ルドルフ2世とその周辺

 標題紙やコロフォン(奥付)等が無いため、ヴァイニッチ手稿の制作地や年代は不明である。この手稿を所蔵するイェール大学バイネッケ図書館の目録では、15世紀末から16世紀の中欧において作られたのではないかと推測されている。ただし、装丁は18〜19世紀の新しいものだという。

 バイネッケ図書館には、手稿とともに発見された書簡1通も収蔵されている。1665年(寛文五年)8月19日付で、プラハ大学総長ヨアンネス・マルクス・マルチがイエズス会アタナシウス・キルヒャーに宛てたもので、当時、このマルチという人物が手稿を所有していたと考えられている。

 書簡の中でマルチは、「ラファエル博士」(ボヘミア王フェルディナント3世時代の法務長官ラファエル・ミソフスキー)からの伝聞情報であるとしながら、この手稿がかつてボヘミア王神聖ローマ皇帝ルドルフ2世(在位1576〜1612)が600ダカットで買ったもので、皇帝はイギリス人ロジャー・ベーコンの著作だと信じていたと記している。

 皇帝ルドルフ2世からマルチに至までの手稿所有者の遍歴は、ある程度分かっている。まず17世紀初頭にボヘミアの科学者ヤコブズ・ホルチツキの手に渡った可能性があるという。既に色褪せて見えなくなっているが、手稿の1ページ目に彼の称号である「ヤコブズ・デ・テペネチ」の署名が入っていたとされることによる。

 ホルチツキはボヘミアの宮廷でよく知られた人物であり、皇帝ルドルフにも近い人物だったと推測されている。ホルチツキが「デ・テペネチ」という称号を許されたのは1608年(慶長十三年)のことで*3、ここから1622年(元和八年)にホルチツキが死去するまでの間の時期、手稿はホルチツキの蔵書となっていたとみられる。

アタナシウス・キルヒャーへの期待

 1630年代までに、手稿は錬金術師ゲオルグ・バレシュの所有となっていた。バレシュは手稿の解読を試みていたが難航し、ローマのイエズス会アタナシウス・キルヒャーに多くの頁の写しを送って解読を依頼していた。当時、キルヒャーはエジプト聖刻文字(ヒエログリフ)を解読した人物としてよく知られた学者だった*4

 しかしキルヒャーからは反応が無かったらしく、1639年(寛永十六年)4月17日付でキルヒャーに宛てて手紙を送り、解読の進捗状況を訊ねている。またバレシュは上記の手紙の中で、自分の所有する奇妙な手稿のことを簡単に描写している。曰く、その手稿には数多くの薬草の絵、星や化学の秘密を語る図解が含まれているという。このことが、バレシュの持っていた文書が、現在、ヴォイニッチ手稿と呼ばれる手稿と同じものである根拠となっている。

 バレシュの死後、手稿は友人であるプラハ大学総長ヨアンネス・マルクス・マルチに遺贈された。1640年代の早い時点で、マルチはボヘミア王フェルディナント3世の法務長官ラファエル・ミソフスキーとこの手稿について議論し、既にこの本のことを知っていたミソフスキーから前述の書簡に記した皇帝ルドルフ2世にまつわる来歴を知ったと推測される。

 1660年代半ば、マルチはイエズス会に入るために、蔵書を友人たちに分けることを決めた。そして手稿については、ローマのキルヒャーに託すこととした。前述の1665年(寛文五年)8月19日付のキルヒャー宛の書簡は、この時、手稿に添えられたものと考えられている。なお書簡には、下記のようにキルヒャーへの敬意と期待が綴られている。

何となれば斯くなるスフィンクスをば畏服せしむるは、其が主にして世に比類なきキルヒャー殿を措いて他にあるまじ、然らば是なる遺産をば受け給へ、特に言ふべきほどのものにも非ず、また既に遅きに失したるの憾み莫きにしも非ずと謂えど、我が敬意の印なり、其の囲みを破り、貴殿が常のごとく功成らせ給え。

 その後、20世紀に発見されるまで、この手稿は歴史上から姿を消すことになる。

参考文献

ヴォイニッチ手稿のページ

ヴォイニッチ手稿のページ

*1:ここでは、内容が無作為に(言い換えれば全くのデタラメに)作成された文書を指す。文書が意味内容を持たない無意味な文書であることを指すだけであり、人を欺く意図をもって作られた文書であるかどうかは問わない。あくまで本項における定義の話。

*2:「捏造」説では近年、16世紀の錬金術エドワード・ケリーが作成した精巧な「捏造」とする説がG・ラグによって提示されている。16世紀に存在した「カルダーノ・グリル」と呼ばれる一種の暗号作成器を使うと、ヴォイニッチ手稿と似た文書を作り出せることが分かったという。エドワード・ケリーは、神聖ローマ皇帝ルドルフ2世から金を騙し取るためにこの文書をでっち上げたとする古くからの説を強く支持するものとなっている。

*3:皇帝ルドルフの重病を治したためといわれている。

*4:聖刻文字(ヒエログリフ)の解読は、1799年にロゼッタ・ストーンが発見され、19世紀前半にフランスの言語学者ジャン=フランソワ・シャンポリオンの作業によって飛躍的に進展した。この結果、現代ではキルヒャーの聖刻文字(ヒエログリフ)解読は完全に誤りであったことが分かっている。