戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

三原酒 みはらざけ

 備後国の港町三原で造られた酒。17世紀初頭からその名が見える。三原では福島正則入部後に酒造業が発達したとみられ、その後全国屈指のブランドとなった。

三原酒の台頭

 室町初期に成立したとみられる『庭訓往来』の「四月十一日状」には諸国の名産品が列記されており、その一つに「備後酒」が挙げられている。備後地域で名を知られた酒に尾道酒があり、慶長四年(1599)九月に贈答品として記録にみえ(『多聞院日記』)、毛利輝元も禁裏に献じている(『御湯殿上日記』)。

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 その後、尾道西方の港町三原でも、その名を冠する酒があらわれる。『輝資卿記』慶長十二年(1607)三月十二日条に「天野壱荷、三原樽一」とあるのが三原酒の史料上の初見であるとされる。当時、三原酒は海運を利用して盛んに上方市場に輸送されていたことが、『輝資卿記』や『儀演准后日記』『鹿苑日録』『本光国師日記』などの日記類にみえる。

 三原酒について、正徳二年(1712)成立の『和漢三才図会』では下記のように記されている。

和州奈良、摂州伊丹、池田、賀州菊川、備州三原、皆得酷諄之名(巻105「造醸類・酒」条)

 三原酒が南都諸白や摂津の伊丹、池田諸白とならび賞賛されていたことが知られる。江戸中期の広島藩主・浅野重晟も、将軍家への献上酒として三原酒を用いている(『寛政武鑑』)。

三原の酒造り

 戦国期、三原は小早川隆景が三原城を築城して治めていたが、慶長五年(1600)の関ヶ原合戦後、福島正則の所領となった。

 江戸期に三原で酒造を営んだ川口家の祖・川口宗助は、福島正則によって招かれ、慶長六年(1601)に来住したという。元和五年(1619)六月、福島正則は厳封され信濃国高井野に蟄居させられるが、そこに三原両町から大樽2つと塩鯛10匹が届けられており(「川口家文書」)、正則と三原の酒造業者とのつながりを見ることができる。

 川口家とともに良酒をもって聞こえた酒屋に角屋がいる。同家には慶長十七年(1612)八月十一日付福島家奉行書判「三原町家付」が代々継承されていたという(『三原志稿』)。このことから角屋もまた、慶長年間からの酒造業者であったと推定される*1

 また三原は、酒造のための良水に恵まれていた。文化二年(1805)の『三原志稿』には、「辻井」や「玉の井」の水についてぞれぞれ「東町酒造家専ら用いる也」、「酒造家大原屋宗十郎抱也」と記されている。

参考文献

  • 小野晃嗣 「中世酒造業の発達」(『日本産業発達史の研究』 法政大学出版局 1981)
  • 加藤百一 「城下町の銘酒(その1)」(『日本醸造協会誌』97巻 2002)

万延元年(1860)創業の醉心山根本店

和漢三才図会 造醸類 酒(国立公文書館デジタルアーカイブ

本光国師日記 慶長十八年三月十六日条(国立公文書館デジタルアーカイブ

*1:ただし角屋は文化の頃には没落し、酒造を廃するに至ったという。