石見国邇摩郡西田を拠点とした大工。仮名は藤五郎。西田に屋敷を構え、天正十七年(1589)の西田八幡宮造営に大工として関わった。
西田の大工
天正十七年(1589)八月、石見国邇摩郡西田の西田八幡宮(現在の水上神社)では吉川広家を大檀那として社殿造営が行われた。この時の「水上神社造営棟札」に、大工として福井藤五郎と藤五郎の一族とみられる福井備後守の名が記されている*1。
また同年十二月二日の棟札には、「大工福井藤五郎春続」と単独で記載されており、実名が春続であることが分かる。実名の「春」は吉川元春からの偏諱とみられ、西田が毛利氏直轄領となる以前の領主吉川氏との繋がりがうかがえるとされる。
福井春続は、西田地内に屋敷を構えていた。慶長二年(1597)十二月十日付「地銭・諸役銀付立写」*2には、福井藤五郎が西田に屋敷壱所を有し、地銭(屋敷の間口を基準に賦課された税)8匁2分を賦課されていたことが記されている。これは屋敷単独でみると、西田で最も地銭賦課額が多い。
銀山周辺における福井一族の活動
春続とともに天正十七年(1589)の西田八幡宮に大工として関わった福井備後守は、西田以外の地域でも活動の足跡がある。天正十一年(1583)八月、吉川元春は邇摩郡大国(現在の大田市仁摩町大国)の石見八幡宮の造営を「大檀那」として行っているが、その際の棟札に「大工福井備後■■」(■は判読不能)とある。
また邇摩郡久利(現在の大田市久利町久利)でも、天正八年(1580)に国衆・久利氏が大檀那をつとめて久利八幡宮を造営。その棟札には「大工福井藤原朝臣安重」とあったという。福井一族が、石見銀山周辺で広く活動する有力な技術者であったことがうかがえる。