戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

頼勢 らいせい

 安芸国竹原庄西谷にあった萬福寺の住職。永禄三年(1560)、楽音寺に大般若波羅蜜多経が施入された際、折本作業の中心を担った。

大般若経の再施入

 永禄三年(1560)、小早川氏ゆかりの寺院である楽音寺(三原市本郷町)に大般若波羅蜜多経(以下、大般若経と省略)が施入された。この大般若経の奥書に「折手同竹原之庄、西谷萬福寺頼勢、如是各折本 于時永禄三年十月二日」とあり、現在の竹原市仁賀町西谷にあった梅王山萬福寺の住職である頼勢が大般若経施入に関わっていたことが分かる。

 同経は、最初京都で印刷され、応永二十五年(1418)に伊代国の柑子女御大明神(伊予国越智本郡桟敷村に所在した神社)に施入されていた。永禄三年(1560)の楽音寺への再施入は、楽音寺法持院住持・真長を願主として行われた。また多くの巻数は妙光禅尼という人物によって施入されたことが奥書から分かっている。

 なお、柑子女御大明神に施入された大般若経は、元々は巻子装であったが、楽音寺への施入後すぐに折本作業が実施された。前述のように、この折本作業の中心を担ったのが頼勢であった。

楽音寺と萬福寺

 頼勢が所属していた萬福寺は、往時は七堂伽藍がある大規模な寺院であり、少なくとも文禄三年(1594)二月までは住僧もいたという。

 頼勢が楽音寺への大般若経施入に関わった経緯は不明だが、彼が楽音寺と法統のつながりがあった可能性が指摘されている。

 楽音寺の僧侶には、鎌倉期の「頼賢」(「東禅寺文書」)、天文四年(1535)頃の文書にみえる「頼義」(「楽音寺文書」)、14世紀後半から15世紀中頃の院主職だった「頼真」、「頼春」(「東禅寺文書」)など、「頼」の字を持つ者の名がしばしばみられる。「頼」の字を持つ頼勢が、楽音寺ゆかりの人物であったとすれば、萬福寺は楽音寺と同じ真言系の寺院だったのかもしれない。

 その後、萬福寺は江戸初期に焼失し、廃寺となった。寛保三年(1743)の『賀茂郡仁賀差出帳』の時点では、「古寺跡、番僧も御座無く候」という状態となっていたという。

参考文献

仁賀町西谷に鎮座する八坂神社の境内に萬福寺があったという。薬師堂が残っている。

八坂神社(萬福寺跡)から眺めた仁賀町西谷。