戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

陶 興昌 すえ おきまさ

 大内家臣。仮名は次郎。陶興房の嫡男。大永年間、父とともに安芸国に在陣したが、病を得て帰国した。興房の後継者として期待されており、家臣に偏諱も与えていたが、若くして没した。

安芸国からの帰陣

 戦国時代の厳島社家・野坂房顕の覚書には、大永五年(1525)三月十八日、父の陶興房*1とともに安芸国佐西郡に在陣していた「陶ノ次郎興次」が、療養の為に帰国する際のことが記されている(『房顕覚書』)。この「次郎興次」が当時の興昌であったと推定される*2

 興昌は岩戸(現・広島県廿日市市佐方)の陣から、船で帰国の途についた。父興房は沖まで出て見送った。他にも厳島に駐屯していた弘中武長や大内方警固衆の諸将、野坂房顕らが船中に挨拶の為に訪れた。父子の別離に、武長らは涙していたと房顕は覚書に記している。

偏諱を与える

 大永七年(1527)十一月、興昌は河内山平五郎の元服に際して烏帽子親となり、偏諱を与えて「昌佐」と名乗らせた(「萩藩閥閲録差出原本河内山新兵衛」)。実名に「昌」がある陶家臣は、ほかに伊香賀昌貞*3江良昌泰、姓不詳昌康(「石清水文書」)らがいる。

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 陶興昌の発給文書は、現在二通が確認されており、上記の河内山昌佐への加冠状のほか、「松江八幡宮蔵文書」の年不詳十一月九日付の文書に、興昌の署名と花押の一部がみえるという。

早世

 興昌は享禄二年(1529)四月二十三日に死去した。享年は25歳とされる*4

 山口県周南市大字下上横矢にある海印寺には、興昌の供養塔が残されている。小宝篋印塔の塔身には「春翁透初/享禄二六月十二日」とあり、興昌の法名と紀年が刻まれている。興昌の死去後四十九日の造立であったことが分かる。同年十月、興昌の早世を知った対馬国の宗盛賢と宗盛廉は、それぞれ興房に弔意を伝えている(「大永享禄之此御状幷書状之跡付」)。

 興昌の死により、興房の跡は問田氏から養子に入った隆房(晴賢)が継ぐことになる。

参考文献

  • 播磨定男 『山口県の歴史と文化』 大学教育出版 2002
  • 中司健一 「陶氏の領主財政ー「松江八幡宮蔵天文十二年大般若経紙背断簡文書」の分析ー(上)」(広島史学研究会 編 『史学研究』第265号 2009)
  • 和田秀作 「吉田兼右「防州下向記」に見える大内氏関係記事」(『山口県地方史研究』123 2020)
  • 和田 秀作 編『戦国遺文 大内氏編 第3巻』 東京堂出版 2019

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周南市大字下上横矢の海印寺に安置されている興昌の宝篋印塔(画面中心)。

*1:興房は大永二年(1523)から安芸国において、安芸武田氏や、厳島神主家らと激しい戦いを繰り広げていた。

*2:御園生翁甫『新撰大内氏系図』(『近世防長諸家系図綜覧』付録 1966年)では、興昌について「或興次」と記している

*3:左近将監。陶氏奉行人として主に主家の財政に関わった。

*4:御園生翁甫『新撰大内氏系図』(『近世防長諸家系図綜覧』付録 1966年)では、「享禄二年四月廿三日死二十五歳」とされている。