戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

陶 武護 すえ たけもり

 大内家臣。仮名は三郎。官途名は中務少輔。出家後は宗景と号した。陶弘護の長子。弟に興明、興房。

父の横死

 文明十四年(1482)五月、周防山口において父の弘護が、石見国人・吉見信頼に殺害される。父の急死により、長子の武護が家督を継ぐこととなった。

 翌年正月、大内政弘は弘護弟の右田弘詮に対し「三郎」(武護)が幼少の為、陶氏名代として軍勢を率いて上洛するよう依頼している。当時の武護は叔父の弘詮の後見を受けていたとみられる。

突然の遁世

 長享二年(1488)の史料に武護が「中務少輔」を名乗っていることがみえるので、当主としての活動を展開するのはこの頃からとみられる。延徳二年(1490)十月には、本拠の富田保に鎮座する神上神社に所領を与えていることが確認される。

 しかし、そのわずか2年後、武護は遁世(世を捨てて出家)した。『蔭凉軒日録』*1(延徳四年(1492)七月二日の条には「大内被官陶遁世」と記されている。この前年に大内政弘は上洛しており、武護も大内氏に従って在京していたとみられる。

富田合戦

 小規晴富の日記『晴富宿祢記』には、武護の遁世だけでなく、その後の行動についても記されている。陶氏では武護が遁世したため、弟の「五郎」(興明)が家督を継いでいた。ところが明応四年(1495)二月十三日になって「宗景」(武護)が周防富田に現れ、陶氏の居館を攻め、興明を討伐したという。その後、武護は富田を去って高野山に赴いたとしている。

 事件から10日後の二月二十三日、大内義興(政弘の子)は安芸の国人・阿曽沼氏に対して武護の捜索を指示。その書状には阿曽沼氏の「海上之儀」での奔走をねぎらいながら、「陶中務入道宗景」(武護)が未だに安芸の能美島に隠れているかもしれないこと、「彼凶徒」(武護)の在所が分かったら追捕すべきであることが記されている。

事件の背景

 『晴富宿袮記』の明応四年(1495)三月二十一日条には、二月十三日の事件とともに、その15日後の二月二十八日に起こった大内氏による長門守護代・内藤弘矩の誅伐事件が記されている。晴富は弘矩が討たれた理由について、「宗景僧」(武護)の「陶五郎」(興明)討伐に「同意」した為だったとしている。

 内藤氏の記録では、弘矩について「為陶中務少輔武護、於防府被誅」と記している。このことから、武護は弘矩と結び、何らかの陰謀に加担していたと推測される。在京中の遁世は、その計画の一部が漏れたためであったのかもしれない。

 富田の建咲院にある「陶氏略図」では、武護について「於姫山討死」と記している。姫山は山口にある内藤氏の属城。『晴富宿袮記』の内容とは矛盾するが、武護と内藤氏とのつながりをうかがわせる。

参考文献

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陶氏居館南方の七尾城跡。富田合戦の際には、七尾城と陶氏居館北方の上野城の間で激しい戦闘があったという。

*1:京都相国寺鹿苑院蔭凉軒主の公用日記