厳島神主。 官途名は上野介、後に兵部少輔。藤原親藤の孫。教親の甥で、興親の従兄弟にあたる。弟に広就。兄がいたらしいが、名は伝わっていない。興親死後に断絶していた厳島神主を自称し、大内氏と戦った。
上洛
永正五年(1508)十二月八日、足利義稙および大内義興に従って上洛していた厳島神主・藤原興親が、京都で病没した。この時、興藤は小方加賀守とともに在京していた。興親とともに上洛していたとみられる。
永正十四年(1517)閏十月、大内義興は京都を離れて和泉国堺に移っており、興藤もこれに従って堺に滞在した。翌永正十五年(1518)三月と五月、興藤は大内氏重臣・陶興房とともに連歌会を興行。この連歌会には当時の著名な連歌師・牡丹花梢柏や宗碩、宗牧、周桂らも参加している*1(「野坂家蔵古写本」)。
国元の混乱
一方国元の神領(安芸国佐西郡)では、神主興親の死後、神領衆が東方と西方の2派に分裂しての抗争が勃発。東方は宍戸治部少輔らが桜尾城に立て籠もり、西方は新里若狭守らが藤懸城に立て籠もって数年合戦に及んだという。この内戦は安芸武田氏ら周辺諸勢力の介入を受けながら、永正十四年(1517)頃まで続いた。
大内氏による神領支配
永正十五年(1518)八月、大内義興は長年の畿内滞在に終止符を打ち、帰国の途につく。興藤と小方加賀守も、国元に帰還。前神主興親の親類である両名は帰国後、義興に自身を神主職に補任するよう愁訴した。
しかし義興はこれを退け、己斐城に内藤孫六、石道本城*2に杉甲斐守、桜尾城に嶋田越中守をそれぞれ城番として送り込み、大内氏による神領の直接支配に乗り出した。桜尾城については、前神主興親が陶氏の縁類だったという理由で、後に陶隆満の家臣・大藤加賀守と毛利下野守が城番となった。
また神領衆の一員であった吉原親直の所領安堵も行っており(「萩藩譜録 吉原市兵衛」)、神主家の被官である神領衆を、大内氏家臣に位置付ける動きもみせている。
神領を直轄支配下においた大内氏は、陶興房を大将として大永二年(1523)三月から安芸武田氏への大規模な攻勢に出た。しかし同氏の防衛線を突破できず、八月に興房は帰国した。
翌大永三年(1523)閏三月、陶興房は長崎元康に対し、桜尾城の改修の為に登城するよう命じている(「萩藩譜録 山中八郎兵衛種房」)。神領の不穏な動きを察知していたのかもしれない。
神主自称
大永三年(1523)四月十一日、興藤は武田光和らの後援を得て桜尾城を奪取して自らを神主と称し、大内氏に反旗をひるがえした。桜尾城番の大藤加賀守、己斐城番の内藤孫六は追放され、石道本城の杉甲斐守は廿日市後小路において武田方に討たれた。この時興藤の被官も討死している。
大内氏は神領(安芸国佐西郡)が敵対勢力になったことで、安芸国への出入口を閉ざされた。同年六月、出雲国の尼子経久が安芸国に侵入し、平賀氏、毛利氏、吉川氏ら安芸国諸勢力を従えて大内氏の拠点・鏡山城を攻略した。尼子氏は興藤の動向を気にかけており*3、両者の間で何らかの交渉があったとも推定される。
大野要害の陥落
翌大永四年(1524)五月、陶興房が厳島神主家方の大野要害を攻撃し、大内方の反撃が始まった。六日から十一日にかけて、大内方も多数の負傷者を出しており、激しい攻防があったことがうかがえる(「吉田ツヤ家文書」「宗像大社文書」「加藤家文書」)。
興藤は武田光和とともに、後詰のために大野女瀧に出陣していた。しかし五月十二日、守将・大野弾正少弼が陶興房に通じて、要害に火を放った。このため、興藤と光和の軍勢は敗走。大内軍は追撃して、7、80人を討ち取ったという(『野坂房顕覚書』)。
第一次桜尾城の戦い
勢いに乗る大内方は、当主の大内義興、義隆父子も出陣。豊前、筑前、周防、長門、安芸、石見の全領国から動員された軍勢をもって桜尾城を包囲した。
七月二十四日には城のニ重まで陶氏の軍勢が侵入して合戦となるなど、激しい戦闘が繰り広げられた。しかし興藤ら城方の士気は高く、大内軍は攻めあぐねた。結局、安芸攻略を優先する大内氏は、石見国人・吉見頼興に和談工作を依頼。興藤の神主引退を条件に桜尾城は開城した。
神領の支配者
神主職を退いた興藤であったが、実際は和談後も神主の実権を掌握していた。大永五年(1525)四月、糸賀宣棟に廿日市の「浮口」徴収を命じていたり、享禄三年(1530)には厳島外宮宝殿の再興を下知していることが確認できる。
厳島社の神官・野坂房顕は、当時は興藤が厳島神社領を思うままに治めていたと「覚書」に記している。
第二次桜尾城の戦い
天文十年(1541)正月十二日、興藤は、厳島神主となっていた弟(または子)の広就とともに再び大内氏に対して蜂起。海賊衆の村上三家を呼び寄せて厳島を占領するとともに桜尾城に篭城する。
しかし十五日には大内警固衆を率いる黒川隆尚(宗像正氏)が厳島を奪回。同じ頃、安芸吉田の郡山城を攻めていた尼子軍も、大内・毛利連合軍に敗れてしまう。
三月、大内義隆が岩国から大野門山城に出陣し、大内軍が桜尾城周辺に展開した。これに対し、九日と十九日には桑原与四郎らが藤掛麓の大内軍を切り崩し、興藤や広就が感状与えている。『棚守房顕覚書』によれば、特に十九日は大内軍で多く死者が出て、弘中隆兼の軍勢が駆けつけなければ危うく部隊が全滅するところであったという。
それでも圧倒的な劣勢を覆すことはできなかった。四月五日夜半、羽仁、野坂、熊野ら神領衆が城を退去。興藤は一人城に残り、火をかけて切腹した。