戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

内藤 正朝 ないとう ただとも

 大内家臣。仮名は彦次郎。内藤興盛の次男。兄に隆時、弟に隆春、元種などがいる。実名の正朝の「正」は、大内氏の“みなし偏諱”とみられる*1

大内氏奉行人

 正朝は、大内氏奉行人としての活動がみられる。天文元年(1532)頃の七月、豊前国下毛郡の万代平城に在城していた光井兼種に、貫武助や杉興重とともに指示を伝えている。同年十一月には、軍役で困窮していた兼種に、「徳政」承認を伝える文書を発給している。

 また年未詳七月、石見国方面に展開していた麻生隆春に対して、阿武郡衆と交代で光井兼種を派遣することを伝えている。

桜尾城の戦い

 天文十年(1541)正月十二日、厳島神主家の友田興藤大内氏に叛旗を翻し、厳島を占拠した。これに対し大内氏は、同月十五日に厳島を奪回し、三月十八日には大内義隆周防国玖珂郡岩国から安芸国佐西郡門山に進んで、興藤の籠城する廿日市の桜尾城に迫った(『房顕覚書』)。

 三月十九日、正朝の兄・内藤隆時指揮下の部隊*2が藤懸尾*3に登り、桜尾城の様子をうかがったが、この部隊に正朝も加わっていた。

 大内軍は以前にも藤懸尾に陣を構えていたが、三月九日に友田軍によって切り崩されていた。大内方の動きに対し、桜尾城側からは桑原与四郎らが出撃して合戦となった。大内方は打ち破られ、正朝をはじめとして熊野藤右衛門尉や宮川大蔵太輔、そのほか主だった者10人余りが討ち死にした(『房顕覚書』)。

 その後、三月二十三日に大内義隆は七尾*4に陣を進めて桜尾城への攻撃を開始し、四月五日に友田興藤が切腹して桜尾城は開城した。

参考文献

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藤懸尾城跡。

*1:この場合、大内家臣・山形正厚(やまがた ただあつ)の事例から、「正」は「ただ」とよむことになる。

*2:伊佐隆光も同日の藤懸での合戦で槍傷を受けたが、彼の負傷を内藤隆時が大内義隆に報告している。

*3:現在の広島県廿日市市串戸。

*4:桜尾城が築かれた丘を含む7つの丘の総称。藤懸尾もその一つ。