厳島神領衆。「大野要害」(大野河内城?)の城主。大永年間、大野に侵攻してきた大内方に内通し、後詰に来た友田興藤、武田光和らを敗走させた。
厳島神領衆の内訌
永正五年(1508)十二月、大内義興に従って京都に上洛していた厳島神主・藤原興親が病死。この後継を巡り、厳島神領衆は東方と西方に分かれて抗争を繰り広げるようになる。
大野氏は西方であったとみられ、永正十二年(1515)、東方に味方した武田元繁の侵攻を受けて大野河内城を明け渡している(「房顕覚書」)。
友田興藤の蜂起
永正十五年(1518)十月、大内義興が京都から帰国すると、大内氏は桜尾城や己斐城といった厳島神領の要衝に城番を送り込み直轄支配に乗り出した。これに対抗して興親の一族である友田興藤が、大永三年(1523)四月に厳島神主を自称して挙兵。大野氏を含む神領衆の多くが興藤に従った。
同年八月、大内氏は反撃を開始。重臣・陶興房、弘中下野守らが率いる軍勢が大野門山に進出した。
大内氏への寝返り
翌年の大永四年五月、弾正少弼の籠る大野要害を大内方が包囲した。大内方の陣容は、陶興房を主将とし、副将として麻生興春および宗像正氏といった筑前勢が確認できる。
五月六日、大野要害の「水手」と「詰口」(本丸か)で合戦が始まった。以後、八日に「山手攻口岸」、十一日に「攻口屏涯」で合戦があり、大内方は多数の死傷者を出している(「吉田ツヤ家文書」「宗像大社文書」「加藤家文書」)。
五月十二日、友田興藤と武田光和の軍勢が、後詰として大野女瀧に着陣。大内方と対峙した(「房顕覚書」)。しかし弾正少弼は、この時既に陶興房と通じていた。同日、大内方に呼応した城兵が城に火を放ったことで、友田・武田の連合軍は総崩れとなり、追撃を受けて7、80人が討死した(「房顕覚書」)
これに勢いを得た大内方は、大内義興、義隆父子も出陣して友田興藤の籠る桜尾城を包囲。七月から激しい攻防戦が繰り広げられることになる。
『芸藩通志』が伝える「大野弾正」
なお近世の『芸藩通志』には、大内方が拠点とした門山城跡について「大野弾正の居所なりし」と記されている。弾正少弼は、元々は門山城を居城としていたところを大永三年に大内氏に追われて大野要害に移ったのだろうか。あるいは大内氏に寝返った後に、門山城の城番を任された可能性もある。
参考文献
- 河村昭一 『安芸武田氏(中世武士選書)』 戎光祥出版 2010
- 藤田直紀・編 『棚守房顕覚書』 宮島町 1975