陶氏被官。官途名は但馬守。陶興房の嫡子・興昌の偏諱を受けたとみられる。興昌死後は、興房の跡を継いだ隆房に仕え、奉行人として安芸国や周防国の支配に関わった。
陶興昌の偏諱
昌泰はその実名から、陶興昌(大内氏重臣・陶興房の嫡子)の偏諱を受けたと推定される。大永七年(1527)十一月、興昌は河内山平五郎に偏諱を与えて「昌佐」と名乗らせている(「萩藩閥閲録差出原本河内山新兵衛」)。興昌は享禄二年(1529)四月二十三日に25歳で死去しているので、江良昌泰が偏諱を受けた時期も大永七年の前後と考えられる。
興昌死後、陶興房の跡は問田氏から養子に入った隆房が継いだ。昌泰も陶隆房に仕えることになったとみられる。
禅昌寺の訴訟
天文十九年(1550)十月六日、周防国吉敷郡小鯖の禅昌寺からの訴えに対し、江良但馬守昌泰、毛利掃部允房継、伊香賀四郎右衛門房経、江良丹後守房栄、野上平兵衛尉房忠が連署で文書を発給している(「禅宗禅昌寺由来書」)。
この文書によると、氷上山興隆寺の二月会の大頭役を陶隆房が担当することになったので、陶氏方は「徳政」について禅昌寺と協議していたらしい*1。そうしたところ、禅昌寺から祠堂米の貸付を受けていた人々が、その「徳政」を自分たちにも適用するよう言ってきたので迷惑しているというのが、禅昌寺の訴えの内容だった。
昌泰らは、諸寺家の祠堂米は徳政の対象外であるとする「公儀之御法度」*2を根拠に、禅昌寺の主張を支持。特に禅昌寺は「無縁所」であるとし、もし口実を作ってとやかく言ってくる「違犯之輩」がいたら、その者たちの名前を挙げて報告するようにと伝えている。
厳島支配に関わる
年不詳*3十一月五日、江良昌泰は江良房栄、毛利房継と連署で厳島社家・野坂房顕に宛てて書状を送っている。
これによれば、厳島社大工の佐伯弥左衛門が周防山口に下向して来て陶「隆房」と対面し、扶助を望んだという。房栄、昌泰、房継の三名は、厳島在住の陶氏被官衆を疎かにしないようにという隆房の意向を、野坂房顕に伝えている(「厳島野坂文書」)。
昌泰は同族の房栄とともに、厳島や佐西郡支配に関わっていたのかもしれない。
玖珂郡由宇庄八幡宮社領の訴訟
このほか、『玖珂郡志』の由宇郷の項に記載がある年不詳十月二十日付の陶氏奉行人連署書状がある。この中で、玖珂郡由宇庄八幡宮社領と諸神田について周防国吉敷郡山口の祇園大宮司・橘兵部少輔時重*4が起こした訴訟について、「房長」、「昌泰)(江良昌泰)、「房忠」(野上房忠)が連署で文書を発給している。