戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

小早川 犬女 こばやかわ いぬめ

 鎌倉期の沼田本荘梨子羽郷の地頭。法名は浄蓮。小早川茂平の長女。舟木常平・小早川雅平の妹で、竹原小早川政景、赤川忠茂の姉。梨子羽郷で領家と争い、勢力を拡大した。

沼田荘の中心地

 犬女の父・小早川茂平は、文永元年(1264)二月十五日に死去。犬女は父から梨子羽郷地頭職とともに地頭門田(領家に年貢を納める必要がない地頭直轄の田地)8町を譲られていた(「小早川家文書」「楽音寺文書」)。

 梨子羽郷ではかつて、平安期に沼田荘の本下司職を有していた沼田氏が、在地領主として高木山に城を構えていた。梨子羽郷の中心的寺院である楽音寺も、沼田氏によって建立された氏寺だった。

 しかし沼田氏は、源平の兵乱で没落。かわって小早川氏が地頭職を得て入部し、その所領を継承するとともに、楽音寺を氏寺とした。一方で小早川氏は、高木山城や楽音寺から少し離れた場所に本拠地を置いている。

領家との対立

 地頭となった犬女は、積極的な領地経営を展開。文永八年(1271)の検注(土地調査)の際、本門田の出田と号して領家の荘田14町を押領したという。また楽音寺の田地数町も、取り込もうとしていたとされる(「楽音寺文書」)。

 このため領家方*1の梨子羽郷雑掌から訴えられており、弘安五年(1282)七月、比丘尼浄蓮(犬女)は事情を説明するために代官の唯心を楽音寺に遣わしている(「楽音寺文書」)。

 この地頭浄蓮と領家との相論は、ついに鎌倉幕府に持ち込まれた。弘安十一年(1288)四月、幕府は地頭門田は8町以外は認められないとする判決を下す。一方で、楽音寺田については領家側の訴えが退けられた。判決理由は、楽音寺が小早川氏の氏寺*2であり、領家の支配が及んでいないとみなされた為だった(「楽音寺文書」)。

楽音寺との関わり

 正応三年(1290)四月、浄蓮は、三重宝塔を建立する為*3、先祖から相伝した地頭本門田内の土地1町を楽音寺に寄進。翌年の正応四年(1291)二月にも、「塔用」に計1町の田畑を寄進している。その中には「紙すきか垣内」「番匠四郎跡」の地名が見え、楽音寺付近に寺用を勤める技術者が住んでいた事がうかがえる。

 この頃、浄蓮は領家が院主職に任じた楽音寺僧・隆憲を改易し、浄地房舜海*4を楽音寺院主に補任。正応五年(1292)正月、上訴しようとする領家方*5に対し、浄蓮の代理人・浄円は、弘安十一年(1288)の幕府の判決を根拠として、所職・免田・補任・改易といった楽音寺に関する諸権利が地頭の管轄であると主張している(「楽音寺文書」)。

 浄円はまた、蟇沼寺(現在の東禅寺)のことも同前であるとの認識も示している。実際、浄蓮のあとの梨子羽郷地頭とみられる「地頭尼」は、永仁五年(1297)十月に蟇沼寺院主職の相論で裁定を下しており(「東禅寺文書」)、地頭勢力が蟇沼寺にも及んでいた事が分かる。

参考文献

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楽音寺の遠景。

*1:当時は西園寺家が沼田荘の領家職をもっていた。同家の家司・橘氏荘官預所)をつとめている。

*2:判決文の「関東下知状案」では、小早川氏の祖・土肥遠平が沼田荘の地頭に補任されて以来の氏寺とされる。

*3:正応五年(1292)七月の寄進状には、この三重宝塔建立が、関東将軍家と父・小早川茂平および浄蓮本人の菩提を目的としていたことがみえる。

*4:正応三年(1290)四月の寄進状では、浄地房舜海の沙汰で宝塔を建立し、祈祷を行うよう要請している。

*5:文書には領家方荘官とみられる前預所朝嗣朝臣の名が見える。弘安四年(1281)の「楽音寺文書」に花押がみえる沼田荘預所橘知嗣と同一人物と考えられる。