スコータイ王朝の王都。タイの北部、現在のムアンスコータイ郡の旧市街。13〜14世紀に栄え、現在もスコータイ遺跡群として残っている。また同王国で生産された陶器は日本にも輸入され、宋胡録と呼ばれた。
アンコール王朝の拠点
12世紀頃、カンボジアのアンコール王朝が西北方に勢力を拡大。スコータイの地にクメール人の統治拠点を形成したとみられる。
スコータイには、この時代の遺跡が残っている。スコータイの遺跡群を囲む城壁外には、アンコール・トムに見られるバライ形式の貯水池の遺構が存在。また城壁西側と北側には、それぞれクメール様式の寺院であるワット・パーマムアンとワット・プラパーイルワンが、城壁内にはヒンドゥー教の祀堂であるサーン・ターパーデーンなどがある。
カンボジアのアンコール・トムを建造したジャヤヴァルマン7世(1181〜1220頃)は、広大な自分の支配領域に施療院と宿駅を設けていた。宿駅の一つは、スコータイの北約60キロメートルにあるシーサッチャナーライにその遺跡が残る。
ジャヤヴァルマン7世はまた、自らの統率力が辺境の地まで及んでいることを示すため、自分の姿を仏陀になぞられた救世主の像「ジャヤ・ブッダ・マハーナータ」と呼ぶ石像を製作し、各地に配置していた。スコータイでも、その一体が発見されている。
スコータイ王朝の興亡
10世紀以降、現在のベトナム・ラオス・中国雲南の国境地帯に住んでいたタイ族がインドシナ半島中央部に南下。アンコール王朝の勢力後退もあり、13世紀中頃にスコータイを王都とするタイ族の王朝が建国された。「スコータイ」とは、「幸福」を意味する「スカ」と、「旭日」を意味する「ウタイ」とが合成された名称であるという。
しかし15世紀までに、南のアユタヤ王朝や北のラーンナー王朝など周辺諸国に圧迫されるなどしてスコータイ王朝は衰退。1419年(応永二十六年)に即位したマハータンマラーチャー4世は、都をスコータイから東のピサヌロークに移した。その後、しばらくしてアユタヤ王朝に吸収され、滅亡した。
スコータイ遺跡群と文化交流
スコータイ王国の繁栄は、王都スコータイの遺跡群からうかがうことができる。遺跡群中央部の、東西約1.2キロメートル、南北1.6キロメートルほどの三層の濠と城壁に囲まれたエリアには、特に遺跡が密集。その中心に、ラック・ムアンと呼ばれる国礎柱*1を建てた廟の跡がある。
その南に隣接してワット・マハータートと呼ばれる仏舎利寺、その東側に王宮跡がある。ワット・ハマータートの仏塔は、下ビルマのテナセリムから来た職人によって建立され、シュリーヴィジャヤ(マレー半島やスマトラ島にあった古代国家)の様式がみられる。またスリランカを巡礼して帰国した僧侶シーサッターは、1345年(貞和元年)にワット・マハータートを修復。仏塔基壇に巡礼する僧侶の列を浮彫りにして残している。
スコータイの仏像は、面長で鼻筋が通り、卵型の輪郭にふくよかなアゴ、端正な顔立ちに特長があるとされる。このような特長は、北のラーンナー王朝の王都チェンマイの仏像と共通し、ラーンナー王朝との文化交流をうかがうことができる。
ラーンナー王朝からは、銅像の鋳造方法ももたらされた。スコータイでは、仏像の鋳造だけでなく、シヴァ神やヴィシュヌ神といったヒンドゥー教の神々の神像も鋳造された。スコータイ王家は、仏教を信奉する一方で、華麗さと権威を示す為にヒンドゥーの神々を王宮に奉安し、祭儀を執り行っていたという。
宋胡録の生産地
王都スコータイの北方約60キロの位置に、副王が治める都市シーサッチャナーライがあった。同地周辺および両都市の中間には窯跡があり、ここで生産された陶器は、スコータイ王朝がアユタヤ王朝に併呑された後も生産され続け、海外にも輸出された。ベトナム製の陶器と非常によく似ていて、ベトナムやカンボジアの陶器技術が伝えられていたと推定されている。
スコータイ王朝領域で生産された陶器は日本にも輸入され、「すんころく」(宋胡録)と呼ばれた*2。製品が集荷されたサワンカロークによるとされる。
考古学的には、16世紀に琉球で流通しはじめ、16世紀中頃以降に西日本各地の遺跡からの出土が見られるようになる。しかしその出土数は少なく、合子(蓋付の小さい容器)が中心であるという。茶道具の香合としても用いられた。