戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

ガラス(博多) がらす

 古代末から中世前期にかけて博多で生産されたガラス製品。博多遺跡群からはガラス製品だけでなく、生産に使われた坩堝も出土している。博多に居住した宋人が生産に関わったといわれる。

ガラスの起源と製法

 ガラスの起源となる施釉された凍石やファイアンスは、紀元前5000年頃の北部メソポタミアに出現。紀元前2300年頃には簡単なガラス製品がメソポタミアに現れ、やがてその製造、加工技術が地中海周辺やヨーロッパ、さらにはアジアへと伝播したとされる。

 日本には弥生時代後期以降、特に墳墓の副葬品として大量のガラス玉が用いられるようになる。これは世界各地で製作されたものが、中国や朝鮮半島を介して持ち込まれたものと考えられている。

 ガラス製品を作る際には、様々な原料を調合しガラスの素材を作る一次生産と、素材を加工して形を作る二次生産の工程がある。ガラスの主成分であるケイ素は、古代では川砂に含まれる石英(ケイ素の結晶)から得た。一次生産では、石英にその溶融温度を下げる融材(ソーダや鉛)を添加し*1、さらに着色のための成分(金属等の材料)を加え、加熱、溶融、混合してガラスとした。

 二次生産では、ガラス素材を加熱あるいは研磨によって、目的とする形に加工する。加熱の場合、溶融したガラスを巻き付ける、塊に空気を吹き込んで膨らませる、あるいは鋳型で成形するなどの方法があった。

博多遺跡群出土のガラス製品

 福岡県福岡市内では、弥生、古墳時代の副葬品として玉類が出土している。つづく奈良期では、鴻臚館跡や多々良込田遺跡でイスラム系ガラスとみられる容器の破片が出土しているのみだった。しかし古代末から中世、博多遺跡群からは約1000点ものガラス資料が出土するようになる。

 博多遺跡群出土ガラス資料の多くを占めるのは、球体に孔のある玉類であるが、他に孔のない球、円盤、棒、環状のものもある。円盤状にも多様な形があり、古代中国の宝器である「璧」をミニチュアにしたような形状もある。

 容器の出土事例も多い。79次調査では、ガラスの小壺と蓋が出土。小壺はほぼ球形で黄緑色を呈する。球形部分の直径は最大で8センチメートル程の大きさで、厚さは1ミリメートル前後と極めて薄い。蓋は下が窄まった球状の体部に紐状に加工したガラスを鉢巻のように巻いて鍔(つば)としている。

 比定される生産時期は12世紀前半。類例が複数の調査地で出土していることから、似た形の容器がある程度の数、流通していたとみられている。

 他にも直径15〜20センチメートル程のサラダボールの様な碗の破片、象嵌に使ったのか扁平なガラスピース、棒状製品(箸の一部?)等々が確認されている。

ガラス坩堝と工房

 博多遺跡群では、ガラスの加工に用いられた坩堝も200点近く出土している。これらは容器の外面の被熱痕跡や、内面に溶けたガラスが付着していることで、ガラス坩堝であることが分かる。

 坩堝の出土地点の多くは南側の砂丘である博多浜(現在の櫛田神社東側)に所在。坩堝は使用後に近くに廃棄されたと考えられるため、この区域にガラス加工を行った工房があったと考えられる。博多以外でも、太宰府箱崎吉塚祝町といった周辺の遺跡で、数は少ないながらも同様の資料が発見されている。

 坩堝の形状は、楕円体の胴部に円筒形の頸部が取り付く壺形容器で、大きさは高さ20センチメートル前後、胴部径10数センチメートル程度。出土した坩堝には、形態上の高い共通性が認められるという。

 これらは中国産の陶器の水注を転用したもので、丁寧に作られており器壁は比較的薄く、把手が付属する。転用前の資料は赤紫がかった褐色であるが、転用後、熱を受けたと見られる部分は灰色に変色している。また頸部から口縁にかけてガラスが流れた痕跡をとどめる破片もあり、器を傾けて中のガラスを流し出した形跡が見られる。

ガラスの成分分析

 蛍光X線分析の結果、博多遺跡群出土のガラス資料は、カリウム鉛ガラスという種類であった。カリウム鉛ガラスは、中国宋朝の時代を起源とするとされ、古代末から中世の日本でも流通していた*2

 またガラスに含まれる鉛の同位体分析では、11世紀後半から12世紀前半では中国産鉛が使われているが、12世紀後半になると対馬産の鉛に代わっている。このことから、二次生産のみならず、一次生産も日本国内で行われるようになっていたことが分かる。

博多の宋人とガラス生産の終焉

 ガラスの加工が活発に行われていた時期の博多は、中国宋朝との交易が盛況で、博多津唐房と呼ばれる唐人町が形成されていた。カリウム鉛ガラスは中国起源のガラスであり、中国産陶器を坩堝に転用している点なども、宋人が技術移転に関与したことを示している。

 博多のガラス器には、多様な生産技法もみられる。先述のガラスの小壺と蓋は、ともに体部は宙吹きで製作されている。容器片には、ガラスを鋳型に吹き込んだ型吹きによるものもある。宙吹きや型吹きは、古代以来のガラス生産技術にはないものなので、宋朝から伝わったガラス器の生産技法であったと考えられる。

 しかし、これらのガラスやガラス製品の生産技術は、14世紀に入ると、その姿を消す。博多周辺では13世紀半ば以降、宋人に関する記録は見られなくなるが、これは鎌倉幕府による貿易制限、南宋の滅亡、その後の元朝による貿易制限、そして二度にわたる元寇といった、国内外の情勢が関わっていると推測されている。

 以後、博多遺跡群や近隣の遺跡を含め、ガラスの加工具は出土していない。

参考文献

櫛田神社

櫛田神社境内の蒙古碇石。日本に侵攻してきた元朝の軍船の碇石といわれるが、平安期から鎌倉期に来航した宋の商船のものである可能性も少なくないと言われている

*1:石英は単独で溶融させようとすると1500度を超える温度が必要となる。

*2:日本では、京都嵯峨の清涼寺釈迦如来像納入品のガラス容器は、宋代の985年(寛和元年)に中国で製作されたもので、分析によりカリウム鉛ガラスとされている。また平泉中尊寺の12世紀半ばの資料が、この種のガラスという分析結果がある。