戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

聖槍(神聖ローマ帝国) せいそう

 神聖ローマ帝国の「帝国宝物」*1の一つ。穂先の鉄の刃には、縦の孔が穿たれ、そこに釘の形状をした金属が嵌め込まれている。これはキリストを十字架に打ち付ける際に用いられた釘(聖釘)の一つであるとされていた。時に聖マウリティウスの槍とも、コンスタンティヌス大帝の槍とも呼ばれた。

神聖ローマ帝国に渡る

 聖槍は、6〜8世紀にイタリアを支配したランゴバルド王国で、王権の徴としての性格を有していたとされる。その後、926年(延長四年)に東フランク王国のハインリヒ1世が入手した。東フランク王国では、戴冠式等の祝典で用いられた形跡はなく、むしろ入城行進の際に掲げられ、戦場に携行されたという。

 ハインリヒ1世の跡を継いだオットー1世は、ローマで戴冠されて皇帝となり、神聖ローマ帝国が始まる。

帝国の象徴

 聖槍を含む帝国宝物は、ザリアー朝初代のコンラート2世(在位1024〜39年)の頃から正当な王権の証とされるようになったとみられる。記録上では、1218年(建保六年)のオットー4世の遺言書に、帝国王冠に加えて、十字架、槍、洗礼者ヨハネの歯、聖アンナの腕の骨といった聖遺物が「帝国の徴 insignia imperialis」として記載されている。

 14世紀、ヴィッテルスバッハ家のルートヴィヒ(後のルートヴィヒ4世)とハプスブルク家のフリードリヒ美公がそれぞれ戴冠して対立。帝国宝物を有するフリードリヒは1315年(正和四年)の聖霊降臨祭の祝日、バーゼルにおいて帝国宝物を公開して皇位継承の正当性を喧伝している。この時、聖槍、聖釘、十字架の欠片、カールの王冠、カールの剣と聖マウリティウスの剣、その他の聖遺物が展観に供されている。

 1322年(元亨二年)、ミュールドルフの戦いでフリードリヒを捕らえたルートヴィヒは、その身柄と引き換えに帝国宝物を入手。1323年から24年にかけてニュルンベルクレーゲンスブルクで公開し、フリードリヒと同じく自らの皇位継承を喧伝した。その後はミュンヘンの宮廷内に保管し、特に展観行事を行った形跡はないという。

定期公開の始まり

 1346年(貞和二年)、帝国宝物を入手しえないまま、ルクセンブルク家のカール4世が即位。彼は長い外交交渉の末、1350年(観応元年)3月にブランデンブルグ辺境伯ルートヴィヒ5世(先帝ルートヴィヒ4世の子)から平和裡に「神聖ローマ帝国の聖遺物と権標」を受け取った。

 同年8月、カール4世の請願を受けた教皇クレメンス6世は、年1回の帝国宝物の展観行事と、それに参加した者への7年と7クアドラゲネ(7×40日=280日)の贖侑付与を勅許。さらに1354年(文和三年)2月、次代の教皇インノケンティウス6世は、ドイツおよびボヘミアにおいて復活祭後の第二金曜日に「聖槍と聖釘の祝祭」として帝国宝物を展観に供することを認めた。

 これを受けて1356年(延文元年)、カール4世は、プラハにおいて初めての展観行事を「聖槍と聖釘の祝祭」として開催した。帝国宝物は、当初プラハの聖ファイト大聖堂に、1365年(貞治四年)以降は、新たに建造されたカールシュタイン城内に保管され、年1回の展観行事の折には、厳重な警護のもと、プラハに搬送された。

 なおカール4世が、定期的な展観行事を催す動機は、彼が幼少期を過ごしたフランス王室の影響があるとの指摘もある*2

ニュルンベルクへの移管

 1421年(応永二十八年)、ドイツ王ジギスムント(カール4世の子)は、フス派による動乱の脅威の中、帝国宝物の安全を確保するため、保管場所をカールシュタイン城からハンガリー国内に移す。さらに1423年(応永三十年)12月、帝国宝物の保管をニュルンベルク市に委ねることを決定。併せて年1回の展観行事を開く権利と、それに付随して2週間のメッセ(年市)を開く許可を与えた。

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 1424年(応永三十一年)3月、帝国宝物は厳重な警戒のもとでニュルンベルクへ移送され、市内の聖霊救護院で保管された。エンドレス・トゥッハーの手記によると、4月17日に同市の参事会員に呈示された帝国宝物は下記のとおりだった。

釘の仕込まれた槍、十字架の欠片、我らの主の飼葉桶、聖アンナの腕、聖ペテロの鎖の輪、聖ヨハネの鎖の輪、聖パウロの(鎖の)輪、聖ヨハネの白い衣の切れ端、カール帝の剣、彼の鐙二つ、彼の宝珠、彼の笏、彼の衣、彼のマント、彼のアルバ、彼の王冠、彼の帽子、彼の帯三本、彼の足袋、彼の靴、聖マウリティウスの剣、笏、宝珠、聖ヨハネの歯(鞭の結び目付き)、大きな十字架

 1438年(永享十年)、金細工師ハンス・シュリッツァーとペーター・ラツコにより、オーク材に銀の薄板を被せたシュラインが作られると、帝国聖遺物はこの中に納められた*3

 帝国宝物の管理維持と適宜補修は、都市参事会の義務のもと行われた。またきわめて重要な任務として、ドイツ国王もしくは神聖ローマ皇帝戴冠式が挙行される際には、自らの経費によって帝国宝物を戴冠式が行われるアーヘンまで安全に搬送することを義務も負っていた。

ニュルンベルクでの展覧行事

 ニュルンベルクにおける展観行事は、16世紀前半に宗教改革が導入されて中止されるまでのおよそ100年間、ほぼ毎年、市中央に位置するハウプトマルクト広場に仮設された木造櫓を用いて行われた。

 展観の際には、市内は厳重に警備され、群衆の動線も規定されていた。しかし膨大な数の人々が市の中心部に殺到するため、不慮の事故も起きやすかった*4

  現存する木版画によると、展観用の仮設木造櫓は三階建てで、屋根はテントで覆われていた。屋根の左右には旗が掲げられていたが、その図柄は聖槍、聖釘の刺さった十字架、荊冠であった。

 展観行事では、地上から群衆が見つめる中、展覧櫓の最上階の高位聖職者が、それぞれ聖遺物を掲げて呈示。別の聖職者がそれらを棒で指し示しながら、「シュライツェッテル」(読み上げメモ)と呼ばれる巻物を読み上げ、それぞれを群衆に大声で説明していったという。

聖槍の由緒

 ニュルンベルクでの展観行事において、聖槍は「聖なる槍の鉄(の穂先)」と呼ばれ、次のように説明された。

これが我らの主イエス・キリストの脇腹を開き、甘い心臓を傷つけたのである。そして非常に深く傷つけたので、汝らも見ることができるように、先端から黄金の飾りのところまでに、その徴がある。同じ聖なる傷口から聖なる泉、すなわち血と水が我々に惜しみなく注がれたのである

 また聖槍の穂先の中央に嵌め込まれた釘については、「この釘によって我らの主イエス・キリストは、十字架に打ち付けられたのである」と注意喚起を行っている。キリストの血が染み込んだ至高の聖遺物二つが合わさって、聖性が倍加しているということを強調しようとしていたともいわれる。

 しかし帝国宝物の聖槍は、必ずしも全ての時代を通じて、キリストを傷つけた槍と同一視されていたわけではなかった。

 10世紀半ばにビザンツ帝国フランク王国の関係が密になるにつれ、キリストの脇腹を傷つけたとされる所謂「ロンギヌスの槍」が、ビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルに保管されていることが知られるようになった。

 この為11世紀には、この聖槍は聖マウリティウスの槍*5との見方が定着するようになったらしい。11世紀末、神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世が補修の為に聖槍に嵌めた銀のカバーには「主の釘と聖マウリティウスの槍」である旨の銘文がある。

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 その後14世紀半ば以降、皇帝カール4世が積極的に展開したプロパガンダにより、聖槍はキリスト受難と関連付けられるようになったといわれる。カール4世がハインリヒ4世のカバーの上に重ねた銀製金メッキのカバーには、「主の槍と釘」と明記されている。

聖槍の効能

 15世紀、指輪を聖槍などに触れさせることが貴人の間では流行していた。1465年(寛正六年)、ブランデンブルク辺境伯夫人アンナは、金の指輪をニュルンベルク参事会に送りつけ、聖遺物に触れさせている。同じ頃、西欧旅行の途次にあったボヘミア貴族レオ・フォン・ロスミタルは、展観参観後に司祭たちに自らの指輪を聖槍の穂先の上に置いてもらったという。

 他の方法で聖槍との接触を求めた例もある。1486年(文明十八年)、オーストリア大公は、布を送り、聖槍で6ヶ所貫かせた上で返送させている。

 また展観行事後、式典に関わった高位聖職者や参事会員、貴賓らは、市役所地下の食堂で行われた「聖遺物晩餐会 Heiltumsmahl」をともにし、そこでは食事に加え、聖槍を浸したワインが振舞われたという。このようなワインは切り傷に効くとされたらしく、1467年(応仁元年)、オーストリア大公は聖槍を浸したワインを2マース送るよう市当局に依頼している。

市民にとっての聖槍

 聖槍の穂先には、皇帝カール4世により、黄金に輝く銀製金メッキのカバーが被せられていた。このカバーこそが、ニュルンベルク市民にとって、真の聖なる槍であることの証となっていたといわれる。

 1511年(永正八年)、画家アルブレヒト・デューラーニュルンベルクの富裕な市民マテウスランダウアーのために制作した『聖三位一体の礼拝』には、中空に浮かぶ聖三位一体を諸聖人が礼拝する荘厳な場面が描かれている。その画面上部左右には、キリストの受難具を手にした天使たちが空を飛んでいるが、そのうち右側の一人が聖槍を持っている。

 通常、聖槍が描かれる場合、その穂先は何の変哲もない鉄の刃であることが一般的だが、デューラーが描いている聖槍の穂先には、ニュルンベルクに保管されていた聖槍と同様に、金色のカバーが被せられている。デューラーは、明らかにこの絵の中の聖槍を、自らの町で年1回見ることのできた聖槍として描いている。

 同様の事例は他にもあり、展観行事で帝国宝物を目にする者にとって、画中の聖なる槍が、特別な感情をもって眺められた可能性を示唆しているという。

16世紀以降の聖槍

 1796年(寛政八年)、ナポレオン・ボナパルト率いるフランス軍が侵攻してきてニュルンベルクに接近すると、皇帝フランツ2世は安全の為に聖槍を神聖ローマ帝国の宮廷のあるウィーンに移送。1806年(文化三年)に神聖ローマ帝国が消滅した為、その後も聖槍はウィーンに置かれることになった。

 20世紀、ドイツのナチス政権により聖槍はニュルンベルクに移されるが、ドイツ敗戦後にウィーンに戻された。現在はウィーンのホーフブルク宮殿の博物館で展示されている。

 2003年、ホーフブルク宮殿の聖槍に対して科学的鑑定が行われ、7〜8世紀に作られたものだと判明している。

参考文献

  • 杉崎泰一郎 『世界を揺るがした聖遺物』 河出書房新社 2022
  • 秋山 聰 『聖遺物崇敬の心性史 西洋中世の聖性と造形』 講談社 2018

ウィーンのホーフブルク宮殿
PAKESによるPixabayからの画像

*1:「帝国宝物」は、神聖ローマ皇帝の正当性を証する宝器。大別して「帝国指標」「戴冠式装束」「帝国聖遺物」から成り立っていた。このうち「帝国聖遺物」としては、聖釘を嵌め込んだ聖槍の穂先と、聖十字架を納めた帝国十字架、洗礼者ヨハネの歯、聖アンナの腕の骨等が挙げられる。

*2:1239年、フランスのルイ9世はラテン帝国のボードワン2世からキリストが被ったとされる荊冠を購入。その後も聖十字架、聖槍、スポンジなどキリスト受難ゆかりの主要な聖遺物をボードワン2世から譲られた。ルイ9世は、ヴァンセンヌでこれら聖遺物の展観行事を挙行。聖遺物がサント・シャペル聖堂に安置された後は、毎年聖金曜日に王手ずから人々に呈示したといわれる。

*3:このシュラインは聖霊救護院内の聖霊教会内陣の天井から鎖で吊り下げらた。床面に降ろすには、ピンと張られた鎖を緩めるために開錠する必要があったが、錠前の鍵は複数の市の高官によって分け持たれていた。この為、誰か一人が悪心を起こしても帝国聖遺物を略奪する事はまず不可能な仕様となっていた。

*4:1431年4月13日の展観の際には、聖母教会の北側に位置するシュトローマ邸の壁面から石が崩落し、2名が死亡したとの記述が年代記にみられる。

*5:キリストを十字架に打ち付ける際に用いられた聖釘が嵌め込まれたことによる。