戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

上山 高平 うやま たかひら

 沼田小早川氏庶子家の上山氏の当主。官途名は掃部助。父は上山信平、祖父は和木為平。系図によると彦平という兄がいた。南北朝期、後醍醐天皇方(南朝方)となり、備後国安芸国足利尊氏方(北朝方)と戦った。

上山氏のはじまり

 上山氏は、鎌倉末期頃に高平の父信平が沼田新荘の上山(現在の東広島市河内町宇山)に移ったことに始まる。信平は同地に田屋城を築いたという。信平は、沼田小早川氏の一族である和木為平*1の子であり、上山氏は椋梨子氏を中心とする沼田新荘の小早川氏庶子家に位置付けられる。

 なお信平が入部した沼田新荘上山について、仁治四年(1243)二月の「安芸沼田新荘方正検目録写」には、「上山九丁九反小卅歩」とある。内訳は除田9反小(神田8反、地頭給1反小)、御佃と官物田をあわせて定田9丁30歩、所当米は公物と地頭分をあわせて19石7斗4升5合であった(「小早川家文書」)。

備後国の反尊氏勢力

 建武三年(1336)五月、九州から京都に向けて侵攻していた足利尊氏は、湊川の戦いなどで後醍醐天皇方を破り、京都奪還を果たす。この時、沼田小早川氏からは小早川氏平(小早川貞平*2の弟)と同経平(後に康平に改名)の従軍が史料上確認できる。

 備後国では、備後国守護・朝山景連も尊氏に味方して従軍していた。しかし、同国には尊氏に敵対する勢力もいた。同年六月十一日、尊氏は津口荘地頭の山内氏一族に対し、備後国中央部の有福城(府中市上下町有福)に籠城している「備後国凶徒」竹内弥次郎兼幸を討伐するよう命じている(「山内首藤家文書」538)。

 このような備後国内の反尊氏の動きに、上山高平ら沼田小早川氏の一部が関わっていた。

 同年七月十五日、備後国西部の「則光西方城郭」(東広島市豊栄町吉原)に小早川七郎と石井源内左衛門入道が立て篭もる。小早川七郎は、「小早川家系図」にみえる上山信平の弟(高平の叔父)の七郎為信に比定される。同城は十七日夜半、津口荘賀茂郷一分地頭・山内観西や長谷部信仲、三善佐賀壽丸らの軍勢の攻撃によって陥落した(「山内首藤家文書」540・541)。

 八月晦日、上山高平(小早川掃部助)は竹内兼幸とともに備後国で蜂起。御調郡広瀬において、長谷部信仲、三善佐賀壽丸らの軍勢と終日におよぶ合戦となった(「山内首藤家文書」540・541)。

 つづいて同年九月四日、高平は竹内兼幸や青目寺別当・弁房らとともに津口荘賀茂郷に討ち入り、同郷内にあった山内観西の住宅を焼き払った。さらに大田荘にも攻め込んだが、駆け付けてきた長谷部信仲、三善佐賀壽丸らと大田・重永の境で合戦となっている。

 その後、高平らは「重永之城郭」(世羅町重永)に立て篭もった。しかし同年九月二十七日、長谷部、三善らによって合戦の末に追い落とされてしまった(「山内首藤家文書」540・541)。

上山城の陥落

 備後国から追い払われた高平は、本拠の上山に戻ったとみられる。なお、「小早川家系図」には信平と高平に「候吉野」との付記あるので父子ともに後醍醐天皇方(南朝方)であったことがうかがえる。他に「候吉野」と付記されている人物には、高平の従兄弟にあたる和木宣茂(信平の兄の和木茂国の子)がいる。

 建武五年(1338)正月、奥州から鎌倉に入っていた南朝方の北畠顕家が京都奪還のため、進軍を開始。尊氏ら北朝方は京都防衛のため各地から味方を招集しており、安芸国からは小早川氏平や竹原小早川祐景、さらには安芸国守護・武田信武も多くの安芸国武士を率いて出陣した。

 そんな手薄となった安芸国南朝方が蜂起する。建武五年三月三日、沼田小早川氏庶流の小早川頼平(民部大夫入道相順)が同左近将監景平らとともに安芸国沼田荘内妻高山の城を占領して籠城。これに対し尊氏の部将・岩松頼宥が伊予国忽那島地頭・忽那重清らを率いて同城を攻撃している(「忽那家文書」32)。

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 この小早川頼平の動きと前後して、上山高平は一族の針田四郎入道らとともに「上山城」に立て篭もった。現在の東広島市河内町宇山にある障子嶽城跡が「上山城」であったともされる。しかし三月九日、安芸国守護代・福嶋左衛門四郎入道率いる軍勢が押し寄せ、激しい合戦の後、高平らは城から追い落とされる(「毛利家文書」1526)。

安芸国転戦

 上山高平や小早川頼平らの蜂起は、石見国南朝方勢力と連携したものだったとみられる。

 三月十日、南朝方の安芸国大将・万里小路継平や備後大将・吉田高冬、石見の福屋弥太郎左衛門尉、桜井荘領家・増賀法眼らが多数の軍勢を率いて安芸国山県郡大朝新荘に攻め込んだ。城を追われた上山高平や小早川頼平もこの南朝方の発向に加わった(「吉川家文書」1158)。

 南朝方は安芸国北朝方と戦いながら南下し、三月十五日、広島湾頭の開田荘火村山(現在の海田町日浦山)に城郭を構えて立て篭もった。これに対し、北朝方は安芸国守護代・福嶋左衛門四郎入道が三戸頼覚や須藤景成(吉川辰熊丸代)、周防親重らを率いて城を攻め、浜手など各所で何度か合戦となった(「吉川家文書」1158、「毛利家文書」1526)。

 三月二十日、北朝方が城の西木戸から攻め上がる。搦手北尾首で合戦となるも南朝方は敗北。そのまま北朝方に城内への突入を許してしまい、城は陥落した(「毛利家文書」1526)。これにより、安芸国での南朝方の活動も終息した。

参考文献

上山高平らが立て篭もった「上山城」とみられる障子嶽城跡の主郭

障子嶽城跡の主郭の切岸と帯郭

南朝方が城を構えた日浦山(火村山)の頂上部

*1:和木為平は椋梨小早川国平の子。

*2:小早川宣平の嫡子。