竹原小早川氏の家臣。15世紀末頃の同氏の正月儀礼を記した史料にその名がみえる。安芸国風早浦の領主とみられ、大きな経済力を有していた可能性がある。
竹原小早川氏の有力家臣
15世紀末頃の竹原小早川氏の正月儀礼を記した「正月祝儀礼所写」には、「なしはとの(梨子羽殿)、くさいとの(草井殿)、おなしとの(小梨子殿)、木たにとの(木谷殿)」につづいて「風早ゑきふ(式部)」「裳懸殿」が登場する箇所がある(「小早川家証文」)。梨子羽氏、草井氏、小梨子氏、木谷氏は小早川氏の一族であることから、風早式部が竹原小早川家中で高い地位にあったことが推測される。
「正月祝儀礼所写」よりも少し前、竹原小早川氏当主の小早川弘景は嫡子の弘平に宛てた置文を作成。これによれば、当時の風早氏は「内之者」(小早川家臣)筆頭の手嶋衆に次ぐ格式を持っていた。また弘景は「風早手嶋衆上と毎度申候へ共」と述べており、本来は風早氏が格上であるとも認識していた。そのうえで、手嶋衆が先に家来となって長年忠勤に励んだ為、序列では手嶋衆が上になっているという事情を説明している。
風早浦の領主
風早氏は、古くから風待ちの港として知られた風早浦(現在の東広島市安芸津町風早)の領主であったとみられる。竹原小早川氏は14世紀中頃に「安芸国三津村地頭職」を得て風早浦を含む三津に進出しており、この頃に風早氏も竹原小早川氏に属したのだろう。三津(木谷・三津・風早の三ヶ村)は竹原小早川氏の本拠である竹原本庄南西の外港に位置付けられるようになる*1。
風早にある浄福寺には、小早川氏進出以前の14世紀前半の造立と推定される大きな宝篋印塔*2が残されている。風早氏に関わる宝篋印塔である可能性が指摘されており、その大きさから、造立者は港を押さえる領主として一定の経済力を有していたと考えられている。
また前述の小早川弘景の置文には、風早浦の西方に隣接する内海(現在の広島県呉市安浦町内海)を本拠とした内海衆が「内之者」(小早川家臣)としてみえる*3。置文には「これは風早同名にて候」とも記されており、内海衆が風早氏の一族であったことが分かる。
風早中間五郎二郎
永正十四年(1517)十一月、備中国新見の国人領主で新見荘代官でもあった新見国経は、京都に上る途中であった「かさはや(風早)中間五郎二郎と申あき人(商人)」に、東寺(新見荘の領家方荘園領主)へ送る書状*4と品々を託している。五郎二郎は、風早氏被官の商人であった可能性がある。
書状の中で国経は、「路次物忩」ではあるが、五郎二郎が京都に上るので2年分の年貢の漆(中桶6つ)20貫文分を送るとしている。また五郎二郎について、「此者船便宜忩間、重而以好便進之不可有無沙汰候」と述べており、彼が舟運に長け、信頼に足る人物であったことがうかがえる。
新見国経は、上記と別の年の五月にも「風早中間五郎二郎」に東寺への書状を託すことがあった。この時、国経は二郎三郎という人物を同行させており、彼に年貢の漆(中桶3つ)と中折紙30束、小帋2束、併せて15貫文分の納入を担当させていた。この他に納紙が10束5帖、納漆1桶も二郎三郎に渡しているので受け取って欲しい旨を書状に記している*5。
参考文献
- 外部サイト:「中世武士団をあるく 安芸国小早川領の復元」
- 鈴木敦子「十五世紀備中国新見市場をめぐる諸動向」(『日本中世社会の流通構造』) 校倉書房 2000
- 瀬戸内海総合研究会 編 『備中國新見庄史料』 国書刊行会 1952
*1:木谷には竹原小早川氏の庶子が移って木谷氏を称しており、小早川弘平の代では重臣乃美賢勝が「風早代官職」となっている。
*2:基礎幅61.0cm・笠幅53.0cm
*3:内海衆は一方で「内海衆今新参にて」ともされており、15世紀後半頃に竹原小早川氏に属したことが分かる。
*4:新見国経は書状で備中国周辺の情勢についても報告。国経は出雲尼子氏に味方し、美作国への出陣して防衛にあたっていること、出雲尼子氏は備後北部の山内(現在の広島県庄原市)に在陣していることなどを伝えている。
*5:新見国経の周辺では未だ戦乱が続いており、納入すべき公物も少なかったらしい。このことについて国経は、美作国の三浦氏の所領に出雲尼子氏が攻め込んだため、援軍を要請されて出費がかさんでいると事情を説明している。