戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

梨子羽 元位 なしわ もとただ

 沼田小早川氏庶子家・梨子羽氏の当主。熈景の子で、元春の父か。史料上の初見は延徳三年(1491)頃。元位が生きたと思われる応仁文明の乱から15世紀末頃までの間で、梨子羽氏をとりまく環境には大きな変化があったことが推定される。

応仁・文明の乱

 応仁元年(1467)、京都で応仁・文明の乱が勃発。沼田小早川氏は細川勝元率いる東軍に味方し、九月七日には惣領家・小早川熈平の被官と庶子家・土倉民部大輔*1の被官が、請願寺の北で西軍と戦って負傷している(「小早川家証文」)。当主の熈平自身も十月三日には上洛して戦闘に加わっていることが確認できる(「小早川家証文」)。

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 一方で国元においても、沼田小早川氏は、安芸・備後の各地に兵を送って周防大内氏や平賀氏、竹原小早川氏、山内氏ら西軍と合戦を繰り広げた。しかし、安芸・備後における東軍は、しだいに西軍に圧倒されるようになる。

 文明五年(1473)九月、沼田小早川元平(熈平の子)が籠る高山城を、竹原小早川弘景を主力とする西軍が包囲。高山城周辺では東西両軍の合戦があったものの、沼田小早川氏ら東軍は、竹原小早川氏ら西軍を破ることができなかった。文明七年(1475)四月に和議がまとまり、ようやく包囲が解かれた。

 沼田小早川氏に提示された条件は、熊井田本郷(三原市沼田西町松江)、安直本郷(三原市沼田東町納所)、梨羽北方(三原市本郷町上北方・下北方)に関するもので(「小早川家証文」)、おそらくこれら所領の割譲だったと推定されている。梨子羽氏の所領である梨羽北方が、和議の条件に含まれているので、梨子羽氏にも何らかの影響があった可能性がある。

将軍足利義材の親征

 延徳三年(1491)八月、将軍足利義材による近江の六角高頼征伐が開始される。幕府奉公衆であった惣領家・沼田小早川敬平(元平から改名)はこれに参陣。梨子羽元位も、軍勢を率いて上洛していたらしい。この少し前の三月、梨子羽元位および土倉継平、生口元綪、上山高豊、小田元範、浦熈氏ら沼田小早川庶子家は、軍勢動員に応じる代わりに国許のことについて心配りをしてくれるよう、敬平に対して求めている。

 近江出陣に際し、沼田小早川勢は義材の御座所となった園城寺の陣門警備を担当。庶子家衆は警備の順番を籤で決めており、「梨子羽方」は「五番禄」となっている*2(「小早川家文書」)。

 六角高頼を降した将軍足利義材は、ついで明応二年(1493)に、畠山基家を討つため河内国に出陣した。しかし四月、管領細川政元による明応の政変が起こる。この時も在陣していた沼田小早川敬平は、庶子等の確執があるとして、細川政元に対して帰国を申請している(「小早川家証文」)。

 同時期、敬平はこれまで長年に渡って敵対してきた周防大内氏に「親類契約」を申し入れており(「小早川家証文」)、関係改善を図っている。

竹原小早川氏との関係

 小早川敬平はさらに、竹原小早川氏との関係も改善させた。明応二年(1493)十一月五日、竹原小早川氏は、安芸国矢野の国人・野間氏が支配する波多見島(現在の呉市音戸町)の瀬戸城を攻略(「小早川家証文」)。この時、沼田小早川氏被官・国貞敬国が援軍として派遣されている。

 この時期の梨子羽氏は、惣領家の沼田小早川氏だけでなく、竹原小早川氏にも属していた可能性がある。15世紀末頃の竹原小早川氏の正月儀礼を記した「正月祝儀礼所写」に、「なしはとの(梨子羽殿)、くさいとの(草井殿)、おなしとの(小梨子殿)、木たにとの(木谷殿)」という箇所がある(「小早川家証文」)。草井氏、小梨子氏、木谷氏の三氏は、竹原小早川氏の一族*3であることから、梨子羽氏も竹原小早川家中で同様に位置付けられていたと考えられる。

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参考文献

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梨子羽氏居館跡と推定される土居岡(ソーラーパネル辺り)と畑木山城(梨羽城)跡の遠景。

*1:寛正六年(1465)八月に梨子羽勢とともに伊予の河野通春討伐に加わった「土倉民部少輔」と同一人物と考えられる。

*2:順番は「一番福 浦方」「二番禄 小田方」「三番福 生口方」「四番寿 土倉方」「五番禄 梨子羽方」「六番寿 上山方」と定められている。福禄寿?

*3:「正月祝儀礼所写」の少し前に竹原小早川弘景が作成した「小早川弘景置文」にも、草井氏、小梨子氏、木谷氏の三氏の名がみえる。ただし梨子羽氏の名は見えない。