安芸国三津川河口部の港町。現在の広島県東広島市安芸津町。室町期は三津村、風早村、木谷村の三ヶ村が「三津三浦」あるいは単に「三津村」と称されて一体のものと認識されていた。古くから風待ちの港として知られ、中世は竹原小早川氏の外港ともなった。
遣新羅使の寄港地
天平八年(736)六月、遣新羅使の船が風早に停泊。その際に遣新羅使が詠んだ「わが故に妹嘆くらし風早の浦の沖辺に霧たなびけり」などの歌が『万葉集』巻15に収録されている。
竹原小早川氏の進出
建武五年(1338)、「安芸国三津村地頭職」が足利尊氏により阿曽沼師綱に宛がわれた。その後師綱は没落し、かわって竹原小早川氏が進出。正平十三年(1358)十月、小早川実義が足利直冬に「安芸国三津村 阿曽沼下野守跡」の知行安堵を申請している。
実義は延文五年(1360)に北朝方の中国管領・細川頼之から「安芸国三津村地頭職」を預け置かれており、貞治二年には嫡男義春に「三津村」の所領を譲与している。この譲状の「三津村」の項に「以木谷三津風早三ヶ村号三津村」と付記されており、「三津村」が三津村と近隣の風早、木谷を含む地域であったことが分かる。
その後、「三津村」の地頭職は竹原小早川氏に継承された。なお応永十三年(1406)三月に小早川弘景が足利義満から所領安堵されているが、その安堵御判御教書には「三津三浦地頭職」とあり、以後の史料でも同様に表記されている。
竹原小早川氏の外港
室町期の「正月祝儀礼所写」という竹原小早川氏の正月儀礼を記した史料に「三津船ばんしやう(番匠)」とある(「小早川家文書」)。三津は造船に関わる職人たちが住む重要な港だった。
この三津と竹原小早川氏の居城・木村城(竹原市新庄町)を山越えで結ぶ最短ルートが存在した。木村城から在屋の谷(竹原市東野町)を経由し、山越えで木谷(東広島市安芸津町木谷)に抜け、三津へと至る。その距離、約2キロメートル。在屋の山中ではこの地を押さえた中世武士(竹原小早川氏重臣・磯兼氏か)に関わるとみられる五輪塔群が発見されている。
また木谷には竹原小早川氏一族の木谷氏がおり、同地には小早川氏一族の為の宝篋印塔群が残されている。竹原小早川氏が城と港という重要拠点をつなぐ最短コースの両端に重臣と一族を配置していたことがうかがえる。
小早川弘平の代では庶子家の乃美賢勝が「風早代官職」の任にあったことが確認できる(「乃美文書正写」)。賢勝は竹原小早川氏の西方経略を担った重臣。音戸の瀬戸にも進出し、子の宗勝とともに警固衆を率いて活躍したことでも知られる。
有力氏族・風早氏
現在、風早にある浄福寺には14世紀前半の造立と推定される宝篋印塔が残されている。大きさ、形状とも立派なものであり、造立には大きな財力が必要とされる。ここから竹原小早川氏の三津進出以前にかなり有力な勢力が風早にいたことが推定されている。
その候補の一つが風早氏。風早を本拠とした氏族とみられ、15世紀後半の「小早川弘景置文」によれば、当時の風早氏は「内之者」(小早川家臣)筆頭の手嶋衆に次ぐ格式を持っていた。また弘景は「毎度申候へ共」(何度も言っていることだが)と前置きし、本来は風早氏が格上であり、手嶋衆が先に家来となって長年忠勤に励んだ為、序列では手嶋衆が上になっているという事情も説明している。
このことから風早氏が竹原小早川氏家臣団の中でもかなり重要な位置にあったことがうかがえる。先述の「正月祝儀礼所写」にも小早川氏一族の梨子羽、草井、小梨子、木谷に続いて「風早しきふ(式部)」の名がみえる。