戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

祐清 ゆうせい

 東寺の僧侶。寛正三年(1462)に備中国新見荘の代官として現地に下向し、支配にあたった。東寺としては久々の直務代官であったが、その支配は困難を極め、最期は現地で横死することとなった。

東寺による直務支配の復活

 東寺領新見荘の代官職は、応永十五年(1408)から寛正元年(1460)まで、細川京兆家被官の安富氏が宝城(安富盛衡)・智安(安富元衡*1)の二代にわたって補任されていた。しかし新見荘の百姓は安富氏の支配を激しく嫌っていた。

 寛正二年(1461)、新見荘百姓たちは、直務代官の派遣を強硬に求める申状を東寺に送っている。荘園領主である東寺と直接つながることで、少しでも年貢等の貢納額を減少させようとする意図があったと推定されている。

 同年八月三日、新見荘百姓の訴えを確認した東寺は、名主百姓たちに対して直務を望む連判状を差し出すように通達。同月十六日、新見荘の三職である公文・宮田盛吉、田所・古屋(金子)衡氏*2、惣追捕使・福本家高の三名は、「御代官御下し候はば、御公事・御年貢等、無沙汰申すまじきよし、御百姓皆々れん(連)判をもって申し上げ候」として、連判状を東寺へと送った。

 この連判状は41名の名主が署名し略押を据えた起請文であり、「万が一にも安富殿が備中国内に代官職を安堵された場合も、新見荘の百姓はこれを絶対に承引しない」ことなどを新見荘五社八幡ら神々に誓うものであった。このような地下人(現地の百姓)の団結した抵抗があったのか、安富方の又代官である「大橋」は、六月には新見荘から退散したという。

 東寺は八月、幕府に対して新見荘の直務の許可を要請。その理由として、安富智安が累計2200余貫文の年貢を滞納していることを挙げている。さらに、安富智安が地下人(現地の百姓)に対して「無理日非文の課役を懸け、譴責した」ため、困り果てた百姓が荘内の惣社八幡の神前で「両度にわたって神水を福し、堅く同心し」、東寺に対して直務を求めてたびたび愁訴しているとも述べている。

 九月二日、幕府は東寺による直務支配を承認。同時に備中守護代にも直務のことを通知した。

代官祐清の下向

 寛正三年(1462)四月、東寺では代官の選出について評定が行われたが、成果はなかった。若衆方は寺内からの選出を求めたが、これに対して代官職の年貢の請口は200貫文とする条件が提示された。この評定で、祐清上人が「上使下向」を所望していることが披露されている。祐清は西院御影堂で堂の番役や文書の管理に携わる三聖人の一人であった。

 六月九日の評定で、祐清の代官職所望が初めて検討されたが、「叶うべからず」と、衆議に却下された。しかし七月十六日、200貫文の年貢を請負う代官が見当たらなかった結果、とりあえず祐清を当年限りの代官とし、代官得分は年貢収納分の5分の1と決定した。この時、東寺は近日中に将軍の参詣を控えており、その費用調達のため、新見荘からの年貢納入を促進する必要があった。

 七月二十三日、祐清は代官職の請文を差し出し、二十七日に下向。八月五日に新見荘に到着した。

たとえ一命を失うとも

 寛正三年(1462)八月十四日、祐清は寺命を伝えるべく百姓を集めた。皆々、直務代官下向をとても喜んでいたという。そんな彼らに対し、祐清は未進年貢を堅く催促し、年貢無沙汰の百姓は名田畠を没収して「召し放つ」(追放する)ことを厳しく申し渡した。

 八月二十五日、祐清は東寺の仏乗院に宛て書状を出している。この中で祐清は「違承及候。事外不思議なる在所ニて候(あらかじめ承っていたこととは違って、ことのほか不思議な在所です)」と困惑を述べ、「百姓等事外ニ緩怠在所ニて強儀なる者共多候て、迷惑候(百姓がことのほか不遜な在所で、強引な者が多くてとても困っている)」と百姓たちの態度について言及している。

 また、東寺が新見荘に駐在させていた了蔵という人物も、既に地下人に言い含められており、年貢の催促をしないよう祐清を威してくる始末だったとする。このような状況に対して祐清は、下記のように覚悟のほどを述べている。

罷下候より覚悟仕候。縦一命失候共、御年貢無沙汰百姓等ニ置いてハ名をも召放、罪科可仕候。

 代官職を請負って下向した時から覚悟は出来ており、たとえ一命を失うとも、年貢を無沙汰した百姓については、名田畠を召し放ち、罪科に処す、として厳しい姿勢で臨むことを誓っている。

 実際、祐清は十二月に節岡名の在所に出向き、未進分と当年分の年貢を完済しなければ「しやうかい(生害)」すると脅し、そして翌寛正四年(1463)七月、節岡名の名主の豊岡という人物を、年貢の未進を理由に「上意」であるとして「成敗」している。「成敗」の内容は必ずしも定かでないが、予告通り生害(殺害)したのかもしれない。

新見荘百姓の抵抗

 寛正三年(1462)の後半から翌年の春にかけ、祐清は東寺に宛てて長文の報告書を送っている。そこには新見荘の支配が思うように進まない現実が記されている。

 祐清が新見荘代官となった背景の一つが、将軍の東寺参詣にともなう費用の調達であった。東寺は諸国の寺領に段銭200文を課したが、この徴収からして地下の抵抗にあった。百姓たちは「自分たちが命をかけて安富ら守護方の代官を訴え、東寺の直務を嘆願したのは、このような事を免れる為であったのに」と反発。「是非共ニ堅く侘事を申すべく候」と述べて段銭を拒否した。

 三職の一人である田所の金子衡氏も、寛正四年(1463)三月の報告書の中で「反銭之事」について「去年は(作物のできが)特に悪くて年貢を納めることさえ難しい」として新見荘百姓の窮状を東寺に訴えている。

 上記で金子衡氏が述べるように、寛正三年(1462)は気象災害などによって作物の損害が発生していた。祐清着任前の同年四月二十五日、「大れんさい(雹か)」が降って、新見荘の奥の釜と足立の2つの村で夏麦が悉く損失したという。百姓たちはこの災害を受けて年貢の未納分は免除されたと主張しており、祐清は東寺に真偽を問い合わせている。

 さらに高瀬・中奥地域では、長雨が続き、田畠ともに「さうたち(早立ち・伸び過ぎ)」のところ、八月二十八日・九月二日の両夜に大霜が降って作物は悉く損じてしまったという。両地域の百姓が十月に提出した申状によれば、代官である祐清に検分を願い出たが取り上げられず、また度々減免を願い出たが、未だ沙汰が無かった。

 高瀬・中奥の百姓があまりにも減免を要求するので、祐清は3分の1の減免を伝えた。しかし新見荘の地頭方では、既に検分を行った上で3分の2の減免措置をとっていた。このことから、高瀬・中奥の百姓は地頭方と同じ3分の2の減免を望んでいた。

 その要求姿勢は強硬であり、「頭足をもがれても年貢は一銭も納入しない」と言って、一身(一味)同心し、起請文を作成。祐清は、今の状態では半分減免すると言っても百姓たちは承引しないだろうと見通しを述べている。

 結局、この問題は翌年に持ち越しとなった。寛正四年(1463)春に公文の宮田家高と惣追捕使の福本盛吉が上洛した際、東寺は高瀬・中奥の減免は半損とすることを決定している。

新見荘代官と市庭

 寛正四年(1463)二月、祐清は、昨年の米の和市(市庭での売買価格)がことのほか減直(基準価格より低価)であったことを東寺に報告している。さらに百姓からは2年前の和市に関して不正行為があったとの訴えがなされていた。地下人たちが皆々、「去々年の和市ニ百俵か内ニ十五貫可違由」と言っているとして、祐清は「めいわく此事候」と結んでいる。

 同年閏六月、米の和市はさらに悪化していたらしい。祐清は、あまりに減直であるので不審に思われても仕方がないとし、八月下旬に上使を下向させて自ら年貢米を売却をして欲しいと要請している。

 このように祐清は和市にかなりの注意を払っていた。祐清の次に東寺直務代官となった祐成も、寛正六年(1465)七月の請文の中で、下記のように述べている。

一、和市事、別而存公平、雖為少分不存私曲自由之儀、加商人問答、冬与春任其時和市、可執進之、御代官之一大事只此事也、専可存知申事。

 代官にとっての任務の第一は、商人との交渉によって有利な和市で年貢物を換貨することであった。

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金子氏と大田氏の対立

 祐清赴任の少し前から、新見荘では三職の一つである田所職をめぐる争いがあり、祐清も対処を余儀なくされている。

 新見荘の田所職は、少なくとも応永三十年(1423)の時点では大田氏が継承していた。しかし寛正二年(1461)八月、前述のように田所は古屋(金子)衡氏となっている。安富智安が代官であった時代に、大田氏に代わって金子衡氏が田所職を保持するようになったとみられる。

 寛正三年(1462)正月、金子衡氏は上洛し、二月に東寺から正式に田所職に補任された。一方で同月、大田中務入道も上洛し、自分こそが田所職に補任されるべきと主張したが、東寺からは拒否された。四月、衡氏は東寺に宛て、大田氏に合戦を起こすよう促す動きがあることを伝え、「なお弓矢になり候はば、功名つかまつり候べく候」と覚悟を述べている。

 祐清赴任後、事態はいよいよ緊迫の度合いを増していった。八月二十四日、祐清は東寺に書状を送り、大田中務が伯耆国に下ったこと、祐清の新見荘下向を待ち受けて、多勢で荘内に乱入することを通知してきたこと、金子方も多勢を用意して大田勢の荘内乱入を阻止する構えであることなどを報告。万一、大田方が上洛して訴訟しても、東寺としては承引しないよう申し述べている。

 九月六日、大田氏は伯耆国守護代の合力を得て新見荘に攻め入る旨を伝えてきた。このため地下では大きな騒ぎとなったという。

 これに対し、祐清は伯耆国守護代方に出向いて軍勢発向の真偽を質問。さらに「軍勢を入れたことで新見荘の年貢が東寺に納入できなくなれば、公方様の御祈祷も止まり、そうなれば京都では山名(伯耆守護の山名教之)が生害される事態にもなりかねない」などと脅した。

 この祐清の交渉は成功し、伯耆守護代方が大田方への合力を見合わせたたことで、支援者を失った大田方は抵抗を諦めた。十一月一日、田所職に所属している田3反を大田方に渡す代わりに、大田方が田所職の関係文書をことごとく金子方に渡すことで一件落着となった。

もはや退屈仕候

 とはいえ、前述のように、祐清の新見荘支配は難航していた。寛正四年(1463)二月、祐清は東寺への書状の中で、年貢請負額の5分の1の得分では、所務がかなり難しいと述べている。さらには、公文宮田家高と惣追捕使福本盛吉が所職補任を受けるために上洛するのに合わせて、「別人をも下し候へとの心中」で自身も共に上洛するべく準備していたと吐露。金子衡氏によれば、祐清がすでに路次まで出ていたところを、「京都御左右を御まち候へ」と堅く引き止めたのだという。

 二月二十六日、金子衡氏は東寺への注進状で「安富殿を訴え申し候時、いかやうの御方へ御契約候とも、直の御代官ならでは、承引仕り候まじく候と、御百姓等、神水かたく仕、定め候」と述べている。直務代官である祐清の交代は、何としても認められないとする姿勢であったあったことが分かる。

 寛正四年(1463)六月、祐清はますます行き詰まっていた。段銭は新見荘全体で5貫文までと地下は言っており、これ以上の金額は難しいようだった。前述のように上洛して所職補任された公文の宮田と惣追捕使の福本の両人は、堅く催促しても補任料を支払わないし、年貢の未進分も納めなかった。

 祐清は東寺仏乗院に宛てた書状で、「我々在国事もはや退屈仕候」(もう嫌になった)として、今秋に所務の交代を申請して、十月・十一月の両月中には上洛するつもりであると述べている。

祐清殺害事件

 寛正四年(1463)八月二十五日、祐清は、中間の兵衛二郎と彦四郎の二名を召し連れ、騎馬でお宮巡り(領内の巡視か)に出かけた。そして、祐清が地頭方の相国寺・善仏寺領に入り、谷内という者の家に通りかかった際に事件が起こった。

 祐清は谷内家の東側の路を南から北に向かって進んでいた。谷内家の客殿の前では馬を降りて通行していたが、客殿を過ぎると乗馬し、おりから建築中だった主殿の前を騎馬のまま通過しようとした。

 主殿を建築していた谷内の者が下馬をしない祐清を咎めたところ、祐清は「谷内方の家とも存ぜず候て、下馬をも申さず候、御免候へ」と非礼を詫びて下馬した。しかし、大勢が刀を抜いて追いかけてきたため、領家方政所付近から一里ばかりの「御宮」で、祐清も太刀を抜いて応戦する事態となる。

 そこに谷内と横見という者が「さ候はば、太刀を御差し候へ」と言いながら追いかけてきて、割って入った。これを受けて、祐清は「下馬仕り候上は、ともかくも・・・」と言いながら太刀を鞘に戻した。すると次の瞬間、祐清は谷内と横見によって討ち取られてしまった。馬、太刀、具足、衣装までも剥ぎ取られたという。

 祐清に同行していた中間の兵衛二郎も殺され、彦四郎はからくも逃れた。祐清殺害状況の詳細な記録は、彦四郎の供述がもとになっているのかもしれない。

 祐清殺害の報に接した三職(公文宮田・惣追捕使福本・田所金子)ら領家方は、すぐさま谷内へ押し寄せたが、既に犯人は落ち失せていたので、建築中の主殿を焼き払った。そのうちに、犯人は地頭方政所に籠っているとの噂があり、さらに祐清の乗っていた馬が政所に繋がれていた。このため、領家方の百姓たちは「一向とうそく(盗賊)にて候や」と地頭方政所に押し掛け、略奪を働いたうえ、火をかけて焼き払った。

 八月二十六日、備中守護被官の西尾氏と河合氏がやって来て、祐清殺害の犯人は見つけ次第に成敗すると約束。領家方の百姓は引き揚げた。

 八月二十七日、三職は東寺への注進状の中で、祐清殺害の背景に言及している。すなわち、祐清を殺害した2人は、以前に祐清によって「成敗」された名主の豊岡の親類の者から頼まれて祐清を討ったのだという。

 祐清の弔いは、領家方政所に近い善成寺で、三職らによってとり行われ、中陰も済まされた。また、惣追捕使福本の兄弟(妹か)の「たまかき」は、生前の祐清に馴染んでいたとして、遺品の形見分けを所望する手紙を東寺に送っている。

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難航する事後処理

 祐清殺害事件後に起きた領家方百姓による地頭方政所の焼き討ちは、幕府を巻き込む大問題へと発展した。九月、地頭方の領主である相国寺は東寺に抗議するとともに、将軍足利義政にも嘆訴。十月四日、幕府奉行人飯尾之種から東寺に対して、地頭方政所の新造と略奪された財貨の返還が命じれられた。

 東寺は将軍の命令を了承したものの、新見荘の三職たちは難色を示した。「彼の敵人どもに、生害させられ候では、叶うまじく候」として、祐清殺害の犯人の成敗を強く求めている。

 十月二十三日、東寺の上使・本位田家盛は、新見荘において相国寺方の上使と会談を行った。そこで相国寺方は、犯人の家だけ焼くべきところを、地頭方政所まで焼いた事は曲事(くせごと)であるとし、将軍が命じているように、急いで政所を新造し、略奪品を返還すべしと主張。さらに、しばらくの猶予を求める家盛に対して、工事が遅延するようであれば、守護方国人の多治部氏と伊達氏に命じて譴責させる、と恫喝してきた。

 十月二十六日、本位田家盛は東寺に状況を注進。地頭方政所の新造について、三職は「めんほくなく(面目無く)候」としながらも、ともかくも同意しているという。しかし百姓たちは「たとえ犯人の横見と谷内が処刑されても、政所は造らないし、東寺が無理に強制するなら逐電するつもりである」と寄合で誓い合っており、強硬な姿勢*3であることを報告している。

 十一月九日、東寺の上使は、柱を2本調えて、地頭方の上使とともに柱立ての儀をとり行った。

 しかし緊張状態は依然として続いていた。十二月十八日、上総増祐(東寺の上使の一人)は、政所新造にあたっては、「もし地頭方名主ならびに百姓が、一言でも違ったことを申したならば、その場において差し違えるのだ」と言う者までいて、現場を離れられない、と述べている。

 十二月二十五日、三職らは古屋を買い取って解体し、地頭方政所の本屋の新造に取りかかった。翌寛正五年(1464)三月十七、屋根が葺かれたことが三職によって東寺に報告されている。

 この頃には三職の尽力もあって百姓が政所新造に協力するようになっており、屋根を葺く際には、領家方の百姓だけでは大変だといって、地頭方の百姓も手伝いにやって来た。上使・本位田家盛らは、領家方と地頭方の争いが起こっては「一大事」と心配したが、両方合わせて300人余りが作業し、申刻(午後3時から5時)に完了した。使用した萱は7000束であったという。

 一方で、祐清殺害の犯人である谷内と横見の両人は成敗も受けずに健在であり、百姓の不満は東寺の無力さに向けられた。また東寺の無力を見てとった細川転厩家の細川持賢は、寛正五年(1464)二月、東寺に対して家人の新見氏を新見荘代官に推薦してきた。東寺は直務を理由にこの要請を断ったが、持賢は以後も何度か代官の口入を行っている。

参考文献

  • 岡山県史編纂委員会 『岡山県史 第五巻 中世Ⅱ』 岡山県 1991
  • 鈴木敦子「十五世紀備中国新見市場をめぐる諸動向」(『日本中世社会の流通構造』) 校倉書房 2000
  • 川口成人 「細川京兆家被官安富智安の活動と実名比定ー文芸史料の検討からー」(日本歴史学会 編 『日本歴史』867 吉川弘文館 2020
  • 牛尾浩臣 「新見圧での本位田家盛ー続田所と荘園ー」(鷹綾史学 編『鷹綾史学 27』 2001)
  • 瀬戸内海総合研究会 編 『備中國新見庄史料』 国書刊行会 1952

JR新見駅前の祐清像。なお祐清が乗っている馬は、後に祐清殺害事件に関連するとある事件の原因となり、東寺を大いに悩ませることになる。

新見庄領家方の地。高梁川と為谷川の合流点付近の小高い丘に新見荘領家方の政所があったと考えられている。

*1:筑後守。法名の智安の史料上の初見は『堯孝法印日記』文安三年(1446)正月十六日条とされる。嘉吉二年(1442)九月八日に主君の細川持之が没したのを受けて、入道した可能性が指摘されている。なお、先代の新見荘代官・安富宝城(盛衡)とは別の系統と考えられている。

*2:備中国国衙領である神代郷出身である可能性が指摘されている。また智安(安富元衡)が備中国国衙領代官であった時期に被官化したとみられ、元衡から「衡」の偏諱を受けたともされる。

*3:新見荘は地頭方と領家家の土地が入り組み、領家方の百姓と地頭方の百姓とは朝夕に会う内輪なのに、自分たちで焼き、壊した政所を作ることは、末代までの恥辱と考えている百姓が多いことも、百姓たちの納得が得られない理由に挙げている。