因島村上氏の当主。吉資の父か。因島村上氏として史料上に初めてみえる人物。備後守護・山名氏より田島地頭職を得る一方で、「海賊」としても知られた。
将軍の御内書
応永三十四年(1427)十二月、村上備中入道は将軍・足利義持の招集に応じ、いち早く播磨に駆け付けた功により、義持から御内書(感状)を与えられた(「因島村上文書」)。招集目的は、義持と対立した赤松満祐の討伐であったとみられる。
田島地頭職を得る
翌年の正長元年(1428)十月、備中入道は備後守護・山名時煕から備後国「多嶋」(田島)地頭職を与えられた(「因島村上文書」)。
なお田島の天神山城は、因島村上氏の拠点であったといわれる。天神山の南麓にある常楽院は、田島の村上氏の菩提寺とされ、同寺の墓地には、村上氏一族の墓と伝えられる宝筺印塔や五輪塔が残されている。
遣明船の警固
永享六年(1434)正月、第9次遣明船が帰朝する際、「九州乱国の時分」であるから「周防伊予辺海賊」を北九州小豆島(長崎県的山大島)辺に派遣することが幕府内で協議された。その事を伝えられた備後守護・山名時煕は、伊予・周防の海賊および「備後海賊の村上」に唐船警固させれば良いと回答している。
その後、実際に幕府奉行人・飯尾大和守を通じて、帰朝時の唐船警固のことについて「四国海賊并備後海賊等」が小豆島辺に出船し、壱岐・対馬の者と一緒に警固すべきことが、管領と山名氏に命じられている(「満済准后日記」)。
因島村上氏が、備後守護・山名氏に属する警固衆として活動していたことが分かる。