戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

浜名納豆 はまななっとう

  遠江国浜名湖周辺で作られた大豆の発酵食品。戦国期、今川氏領国にて贈答品として用いられており、駿河に下向していた山科言継はその製法を日記に記している。

遠州浜名の大福寺

 元禄十年(1697)刊行の本草書『本朝食鑑』では、浜名納豆について、次のように記されている。

その昔、家康公が駿城におわした時、遠州浜名の大福寺、摩迦耶寺の僧に命じて作らせたというもので、形状は茶褐色で粘らず、まるで乾いたもののようである。

 「大福寺」は現在の浜松市三ヶ日町にある。浜名湖につながる「猪鼻湖」のそばだから「浜名納豆」の名が付いたと考えられる。一方で、後述のように、その起源は徳川家康の時代よりも以前に遡る。

山科言継の駿河下向

 弘治ニ年(1556)九月十一日、公家・山科言継は駿府に身を寄せていた養母の中御門氏*1を訪ねるため、京都を出立。九月二十四日、駿府に到着し、知恩院末寺の新光明寺に落ち着いている(『言継卿記』)。

 翌二十五日、中御門氏から言継に対し、串柿、醤、濱名納豆、茶等が入った食籠が届けられており、濱名納豆がこの地方の名物であったことがうかがえる。翌弘治三年(1557)正月二十二日には、盛方院に仕える松井弥助が「遠州之濱納豆一桶」を持って来たことが日記にみえる。

 山科言継はこの浜名納豆を気に入ったのか、同年二月二十七日、その製造方法を教えてもらい、日記に書き留めている。

方丈へ罷向、浜納豆の調味習之、如此、一両分別あるへし

大豆一両煎て、小麦の粉半両よくまぜて、板にひろげて榎の葉を覆て、露の後取て、黄花の付く程七日計過て、其後よく煎してよくさまして、先紫蘇山椒の皮、各三分一茴香、生姜各少、前の塩水に四種をよくねり合て、後に大豆を合て桶に入、蓋の上にをもし置て、三日計ありて又よくかき合て二七日計有て、しるをしたみて日にほすべし。

 その製法は、大豆と小麦で麹を作り、それから塩水を加えてさらに山椒、生姜、紫蘇、茴香(ういきょう)を入れる、というものだった。

 言継は三月一日に駿府を出発し、京都への帰路につく。その前日のニ月三十日にも、今川義元母の大方殿(寿桂尼)から「濱納豆一筥」を賜っている。

内裏への献上

 徳川氏も浜名納豆を贈答品として用いた。慶長八年(1603)一月三日、徳川家臣・大沢基宿が内裏に「はまなつとう」(浜納豆)を献上してたことが「御湯殿上日記」にみえる。この一ヶ月後の二月十二日に徳川家康征夷大将軍の宣旨を受け、伏見城で将軍宣下の儀式が行われた。基宿はこの儀式の進行をつとめており、一月三日は挨拶や打合せの為の参内であったとみられる。

 さらに基宿は寛永二年(1625)にも、「はまなからむし」(浜名唐味噌)を献上している。

参考文献

  • 松本忠久 『平安時代の納豆を味わう』 丸善プラネット株式会社 2008
  • 吉田元 『日本の食と酒』 講談社 2014

浜納豆 from 写真AC

*1:中御門氏の姉は駿河戦国大名今川氏親室で、今川義元母の寿桂尼。彼女を頼って天文二十二年(1553)以来、駿府に身を寄せていた。