知多半島と渥美半島の海峡部に浮かぶ篠島の港町。篠島はその位置から伊勢・三河両国間の海上交通の要衝を占めるとともに、伊勢、尾張、三河を結ぶ伊勢海水運の拠点の一つとなった。
伊勢と三河をつなぐ
弘治二年(1556)九月、公卿・山科言継は駿河下向に際し、伊勢国楠から船で「志々島」(篠島)に渡った。そこで風待ちを行った後、室津(牟呂)へと渡航している(『言継卿記』)。
楠から篠島へは国人・楠氏と、才松九郎左衛門が用意した船を利用した。到着時に謝礼として「舟ちん五十疋」が支払われ、しかも「常百疋余出スベキ儀ナリ」とあることから、当時、楠から篠島まで船の運航が日常的に行われていたことが窺える。
なお言継は当初、楠氏が用意した小船を「覚束無シ」として、断っている。言継が不安を覚えるような小舟が、通常は楠・篠島間を運航していたと思われる。
珍しいクジラ料理
言継は篠島滞在中、宿の亭主から鯨の「たけり(陰茎)」をふるまわれている。伊勢・尾張の近海では、16世紀には捕鯨が行われていた。鯨の調理法も、様々あったのかもしれない。
篠島の商人たち
水運を背景として、篠島の商人たちの活動もまた活発だった。天文二十一年(1552)、織田信長は知多郡代・大森平右衛門尉に対し、尾張国守山との間を往復する知多郡と篠島の商人への違乱を禁じている。篠島には水運に関わったとみられる商人たちが居住し、守山に出向いて商売していることがわかる。
伊勢大湊への入港記録である『船々聚銭帳』*1や『船々取日記』*2にも、肥鰯などを運ぶ篠島船が記されている。篠島の活発な水運がうかがえる。