戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

クリスティアン・スクローテン Christian Sgrooten

 16世紀後半、クレーヴェ公国のカルカーを拠点に活動した地図製作者。スペイン王フェリペ2世の国王地理学者の一人として活動し、代表作として「アトラス・ブリュッセル」と「アトラス・マドリード」という二つの地図集を遺した。

生い立ち

 クリスティアン・スクローテンは1524年(大永四年)頃に、クレーヴェ公国南端のゾンスベックという町で4人兄弟の次男として生まれた。父ピーテルは市の法律家で、尚書や裁判所書記を務め*1、母スティーネは町の裕福な商人の娘であったという。

 トリーアに残された1540年代前半の手描きの地球図が、スクローテンの習作といわれている。これが正しければ、おそらく既に15〜16歳の頃から、地理学と地図製作に関心を抱き、修行をはじめていたと考えられる。

カルカーへの移住

 1548年(天文十七年)、スクローテンは同じくクレーヴェ公国のカルカーにおいて市民権と不動産を取得*2。1553年(天文二十二年)11月には市のマルクト広場に面した立派な邸宅を購入している。この年は不動産売買を繰り返しており、にわかに裕福になったことがうかがえる*3。しかし、翌6月には邸宅を手放す。兄ヤコブ*4の負債をかぶったともいわれる。

 これと同じ頃、地理学者ゲラルドゥス・メルカトルが、カルカー南東45キロメートルのデュイスブルクに移住している。スクローテンは後年、メルカトルと共同で地図を製作したことから、地図資料を参照し、測量器材などを貸借することのできる立場にあったと考えられている。一説にはメルカトルの徒弟であったともされる*5*6

国王地理学者となる

 1557年(弘治三年)12月2日、スペイン王フェリペ2世は、滞在中のブリュッセルからヘルダーラント州アーネムの財務長官宛てに書簡を送り、フェルウェの地図を献上してきたスクローテンに対し報酬を与え、国王地理学者に採用する旨を伝えている*7

 なお国王委任官である国王地理学者は一人ではなく、この時は地図製作者ヤコブ・ファン・デフェンテルも同じ地位にあった。遅れて1575年(天正三年)には、アブラハム・オルテリウスがこの称号を帯びており、在任の時期はスクローテンのそれと重なっている。

 国王委任官となったスクローテンは、1559年(永禄二年)にヘルレとズトフェンの地図を製作し、1561年(永禄四年)には、エノー伯領南部の地図を、1562年(永禄五年)にはメヘレンの地図を製作した。1564年(永禄七年)にはヴェストファーレンの地図を完成している。

 各地での測量には、ブリュッセルのスペイン領ネーデルラント政庁より通行許可証が発給されたとみられる。1561年(永禄四年)7月23日付の許可証には、「余の諸州を行脚し、周辺諸国、土地、村落ともども記述すべし」と書かれていた。許可証を提示すれば、器材や助手とともに、城塞のような防御施設にも自由に入城することができたという。

経済的な安定

 一方で国王任務以外の依頼もあり、アントウェルペン(アントワープ)アムステルダムの市参事会の仕事も引き受けている。報酬はそれぞれ51リーブル、40リーブルであった。

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 国王委任官やそれ以外の報酬により、スクローテンの生活は経済的に安定したとみられる。1564年(永禄七年)、カルカーの目抜き通りであるグラーベン通りに面した邸宅を購入。また同市の聖ニコライ教会の改築の為の寄付や、ライン川と市を結ぶ運河の建設をユーリヒ=クレーヴェ=ベルク公*8に建議する活動も行っている。

 また、この頃スクローテンは町の名士の娘アグネスと結婚。アンナとピーテルと名付けた2人の子どもをもうけている。

「アトラス・ブリュッセル

 1567年(永禄十年)、アルバ公(フェルナンド・アルバレス・デ・トレド)がネーデルラントの新たな執政に就任する。スクローテンの代表作の一つ「アトラス・ブリュッセル*9は、この時期に作られている。

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 「アトラス・ブリュッセル」は、全部で37幅の手描き地図が収録された地図集である。それらは大縮尺のネーデルラント諸州の地図と、小縮尺の神聖ローマ帝国の地図の二つに大別される。

 スクローテンは、ネーデルラントと北西ドイツについては既存の地図から地誌情報を集め、それ以外の神聖ローマ帝国の諸地方においては、ヘッセンヴュルテンベルク、オーバーシュヴァーベンなどで、これまでよりも広い範囲での土地測量を行った。さらにウィーンやイタリアへも行脚したと推定されている。ときにスパイの嫌疑をかけられたこともあったという。

 1573年(天正元年)、「アトラス・ブリュッセル」はアルバ公に提出され、その後にマドリードのフェリペ2世のもとへ送付された。神聖ローマ帝国の全域をこれだけの規模で描いた地図は当時どこにも存在しなかったが、公表も出版も前提とされなかったために秘匿されたままとなった*10

「アトラス・マドリード

 スクローテンは「アトラス・ブリュッセル」を「第1部」と位置づけ、「第2部」の製作を企図していた*11。この「第2部」こそが、1592年(文禄元年)に完成した「アトラス・マドリード*12であった。

 この地図集には、38幅の手描き地図が収録されており、一部は「アトラス・ブリュッセル」から転載されているが、大半は新規に製作されたものである。全体の7割が、世界地図を含めた比較的小縮尺の概略図(北欧、東欧、神聖ローマ帝国、低地諸国、フランスおよびブリテン諸島)からなり、残りの3割は大縮尺のネーデルラント諸州の地図である。

 1573年(天正元年)の「アトラス・ブリュッセル」にはネーデルラントの南部諸州が抜け落ちていた。このため、スクローテンはこれを未完成と判断し、さらに完全版を目指したものとされる。

 スクローテンは、二次資料として印刷された地図も補助的に参照しているが、おそらくフランス、スカンディナヴィア、ポーランドスロヴェニアなど、少なくとも中部ヨーロッパの広い領域を実際に訪ね歩いて測量を行い、北東ドイツ部分でも地図を新しくしている。

 1592年(文禄元年)の完成後、「アトラス・マドリード」は1596年(慶長元年)にようやく、鑑定のためにブリュッセルの新しい執政オーストリア大公アルベルトのもとに送付され、その間の刊行について禁じられた*13。1600年(慶長五年)、この地図集はマドリードに送付されることになったが、フェリペ2世は既にこの世を去っていた。

晩年の苦境

 1596年(慶長元年)に「アトラス・マドリード」をブリュッセルに献上した後、さしあたり報酬が支払われた。しかしその金額は、スクローテンの作成した対抗計算書に記載された金額の3分の1に満たなかったという*14

 既に政変の影響等を受けてか、アーネムの会計院からの報酬の支払いは1577年(天正五年)に停止されていた。地図集の前書きには、「自分の家族は報酬の支払停止により困窮し、孤立している」と記されており、苦しい状況にあったことがうかがえる。

 「アトラス・マドリード」製作時期、ネーデルラントでは新教徒の勢力とスペインとの戦争が激しさを増していた。1588年(天正十六年)頃からニーダーライン地方も戦争の舞台となり、ヘルレ、クレーヴェ、クールケルンにもスペイン軍が侵攻していた。

 そして1598年(慶長三年)、スクローテンの住む都市カルカーもスペイン軍に焼き払われた*15。スクローテンやその家族の動向は不明だが、スペイン軍が侵攻していることから、カルカーは新教徒側にあったことがうかがえる。カトリックのスペイン側に立つスクローテンは、極めて厳しい立場にあったことが想定される。

 1603年(慶長八年)5月13日、スクローテンは死去した。カルカーの本教会である聖ニコライ教会ではなく、ドミニコ会修道院の墓地に埋葬されたことが分かっている。

『世界の舞台』

  スクローテンが「アトラス・ブリュッセル」を完成させる少し前の1570年(元亀元年)、アブラハム・オルテリウスによる地図帳『世界の舞台』は、アントウェルペンラテン語版が刊行された。以後、『世界の舞台』は地図の追加や再編集等が行われながら、様々な言語で多くの版を重ねていく。

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 この地図帳には、オルテリウスが編纂にあたって参照したさまざまな地図とその作者を列挙した「地図製作者名録」が収録されている。そこに挙げられた地図製作者は183名にもおよぶが、そこにクリスティアン・スクローテンの名もみえる。

 実際に『世界の舞台』には、スクローテン作の7つの地図が言及され、うち3つの地図が掲載されている*16。この数は、183名の作者のなかではトップクラスであるという。

参考文献

  • 小川知幸 「闇に消えた地図製作者クリスティアン・スクローテン」(『東北大学附属図書館調査研究室年報』2号 2014)

「アトラス・マドリード」はマドリード国立図書館 に所蔵されている
CesarezzによるPixabayからの画像

*1:なお、後年の地図に表れているラテン語知識から、スクローテンは高い教養水準にあったことがうかがえるという。父ピーテルは、ケルン大学とルーヴァン大学に学籍登録されていたいわゆるエリートであったので、教養はその個人教授によって身につけた可能性が指摘されている。

*2:町の会計簿の記載から、クリシュティアン・スクローテンが1グルテンを支払い、市民権と不動産を取得したことが分かる。また市民権の取得には最低制限年齢21歳という条件があり、そこからスクローテンの生年が推定されている。

*3:父の死去により、その遺産が手に入った為とも推定されている。

*4:スクローテンのカルカー移住の数年前から同地におり、商人として活動していた。

*5:スクローテンの用いた三角測量法は、メルカトルが師であるヘンマ・フリシウスから引き継ぎ発展させたものであり、技法上のつながりも大きい。

*6:また1558年(永禄元年)に印刷されたクレーヴェとその周辺地域を表した壁掛け地図が、土地測量から地図への描写、印刷までを通じた、メルカトルからスクローテンへの「親方資格課題作品」であったのかもしれない、との説もある。

*7:ブラバントの裁判所の法律家であったデニス・スクローテンという人物は、スクローテンの父ピーテルの弟とみられている。彼は多くの有力者と関わりがあり、スクローテンの国王地理学者任官には、叔父デニスの推薦があった可能性もあるという。

*8:当時のユーリヒ公国、ベルク公国およびクレーヴェ公国は連合関係にあり、ヴィルヘルム5世がユーリヒ=クレーヴェ=ベルク公の地位にあった。

*9:現在はブリュッセル王立図書館所蔵であることから、この名で呼ばれている。

*10:19世紀に骨董商によって再発見されるまで、ほとんど忘れ去られていた。

*11:1575年(天正三年)5月、スクローテンから財務長官宛の書簡に添えられた領収書には、国王のもとにある第1部の他に、地図の第2部が完成されるであろう、と記されている。

*12:「アトラス・マドリード」の名称は、現在、マドリード国立図書館に所蔵されている事に由来する。

*13:鑑定には国王地理学者であったオルテリウスの意見も聴取された。

*14:なお報酬の支払いは、スクローテンの死からおよそ6年後の1609年(慶長十四年)まで行われている。

*15:同市は翌年にペストの流行にも見舞われている。

*16:ヴェストファーレンの地図は、『世界の舞台』の1579年(天正七年)以降の全ての版に採用されている。