戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

サント・ドミンゴ Santo Domingo

 イスパニョーラ島の南岸、オサマ川河口部に形成された植民都市。クリストバル・コロン(コロンブス)の次弟バルトレメオ・コロンが建設した拠点ヌエヴァ・イザベラの壊滅後、新総督ニコラス・デ・オヴァンドによって都市建設が開始された。

スペインのイスパニョーラ島進出

 1492年(明応元年)8月3日にスペインのパロスを出発したクリスバル・コロンは、10月12日にカリブ海のサン・サルバドル島に上陸し、12月6日にイスパニョーラ島に至る。当時、イスパニョーラ島*1は先住民のタイノ・インディアンのカシーケ(首長)によって統治されており、マリエン、マグア、マグアナ、ハラグア、ヒギュエイという五つの領域に分かれていた。

 コロンらはイスパニョーラ島の北側に拠点としてナヴィダー要塞を築いた。翌1493年(明応二年)1月4日に出港し、3月15日にパロス港に帰着。同年のうちに第二次航海が計画され、コロンは9月25日にカディスを出港して11月22日にイスパニョーラ島に到着する。しかしナヴィダー要塞は破壊されており、第二の拠点として植民都市イザベラが建設された。イザベラはアメリカにおけるヨーロッパ人による最初の植民拠点とされる。

 1496年(明応五年)3月10日、コロンはスペインに向けて帰還。この間もヨーロッパ人による植民活動は継続され、同年、コロンの次弟バルトレメオ・コロンによってイスパニョーラ島南岸部にヌエヴァ・イザベラが建設された。

 ヌエヴァ・イザベラは、オサマ川の東岸から数キロメートル河口に近い場所にあったが、後にハリケーンによって壊滅。1502年(文亀二年)、新たなゴベルナドール(総督)に任命されたニコラス・デ・オヴァンドによって、オサマ川の対岸に新たな町サント・ドミンゴが建設された。

都市サント・ドミンゴの建設

 1501年(文亀元年)、オヴァンドはスペイン国王からスペイン人たちを集住させるための要塞都市の建設を命じる勅許状と指示書を受ける。その後スペインを出発し、1502年(文亀二年)4月にヌエヴァ・イザベラに到着。オヴァンドは、引き続いて、分散居住していたインディオたちを主従させ、鉱山近郊に集落を建設するよう命じられた。

 1505年(永正二年)、サント・ドミンゴ要塞の建設が開始され、1507年(永正四年)にイタリア人建築家フアン・ラベの設計によって、オメナヘ塔(ヨーロッパの中世都市の主塔)が完成している。なおサント・ドミンゴ要塞はサント・ドミンゴに現存する最古の建築であり、竣工は建築開始から約半世紀後の1567年(永禄十年)とみられる。

 1541年(天文十年)、スペイン国王カルロス一世はサント・ドミンゴの港の稜堡建設への経済援助を行う際に、市壁の建設の必要性を強調。1543年(天文十二年)に市壁の建設がスペイン人建築家ロドリゴ・リエンドによって開始された。当時の人口は6000人であったと考えられている。

 その後、1564年(永禄七年)までに3つの門、すなわちプエルタ・グランデ、プエルタ・チェラダ、プエルタ・デ・レンバが完成。北側については囲われていない。町の北部には石灰岩の採掘場があり、周辺に労働者の村が形成され、サンタ・バーバラと呼ばれた。

1585年の都市図

 サント・ドミンゴの最も古い都市図は、1585年(天正十三年)のフランシス・ドレイク*2の遠征の時にバティスタ・ボアシオによって描かれたものとされる。

 この地図をみると、市街地は極めて整然とした矩形の街区によって構成されている。また、全体は市壁で囲われ、ほぼ建て詰まっているようにみえるという。東南部には完成した要塞が描かれ、市街中央にはカテドラルがみえる。西側の市壁には3つの門が設けられ、近郊の集落も描かれている。

 市街中心のカテドラルはサンタ・マリア・ラ・メノールと呼ばれ、1540年(天文九年)に「新大陸」最初のカテドラルとして竣工している。またサン・ニコラス・デ・バリ病院(1552年竣工)とサント・ドミンゴ大学(1538年竣工)も建設されており、いずれも「新大陸」最初の病院・大学となった。ラス・カサスが修道士となった聖ドミニコ修道院(1510年竣工)やサン・フランシスコ修道院(1535年竣工)などの主要な修道院・教会も同時期に完成している。

 なおサント・ドミンゴのグリッド状の街区については、すでに1525年(大永五年)にフェルナンド・デ・オヴィエドが「サント・ドミンゴバルセロナよりよい。全て定規とコンパスによって測られ、街路は同じ寸法でつくられている」と記している。当初の都市建設に関わったニコラス・デ・オヴァンドは、スペインによるナスル朝の王都グラナダ攻略戦に参加し、1492年(明応元年)に極めて整然とした軍事キャンプとして知られるサンタ・フェの建設を経験していた。このため極めて計画的な都市建設を熟知していた可能性が指摘されている。

参考文献

  • 布野修司ヒメネス・ベルデホ,ホアン・ラモン 『グリッド都市ースペイン植民都市の起源,形成,変容,転生』 京都大学学術出版会 2013

サンタ・ドミンゴの眺め トーマス・ドゥズバーグ 1685 - 1714
アムステルダム国立美術館  https://www.rijksmuseum.nl/nl/rijksstudio

*1:先住民であるタイノ・インディアンから「キスケーヤ」(母なる土地)、そして「アイティ」(高地)と呼ばれていた。

*2:イングランド・エリザベス朝の航海士・提督。カリブ海で海賊として活躍した。ドレイクは1572年(元亀三年)にパナマを攻撃し、1586年(天正十四年)にイスパニョーラ島を侵略した。