戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

来 国俊 らい くにとし

 鎌倉後期から南北朝初期の山城国の来派刀工。仮名は孫太郎。来国行の子とされ、生年は延応二年(1240)頃に比定される*1。長命であり、少なくとも81歳頃まで作刀を続けていることが確認できる。

山城国の来派

 山城国の刀工の流派の一つである来派は、同国の粟田口派とならぶ二大流派として知られ、鎌倉中期以降に京都の名刀一派として台頭したとされる。来派の始祖である来国吉は高麗人と伝えられているが(『古刀銘尽大全』)、国吉作の刀は現存していない。

 来派の作刀が本格化するのは国吉の子である国行の時代であり、国行が数々の名刀を作っていることから、事実上の来派の始祖を国行とするのが通説となっている。国行は永仁五年(1297)に79歳で没したとされる。

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 国行の跡を継いだのが来国俊であった。また国俊の親族とされる来国次は国俊に師事したのちに鎌倉に移住し、「鎌倉来」とも呼ばれた。国俊の後の時代には来国光の活躍が知られる。

長命の刀工

 元亀元年(1570)の『元亀本刀剣目利書』には、来国俊が85歳で手掛けた作例があり、90歳まで生きたとある。また江戸期の『古刀銘尽大全』には、康永三年(1344)に105歳で死去したとの伝が有ることが記されている。

 来国俊が長命であったことは、現存する刀からも分かる。徳川美術館(愛知県名古屋市)所蔵の来国俊作の太刀には「正和二二年」(1315)の紀年と「齢七十五」の銘が刻まれており、さらに元亨元年(1321)紀年の国俊作の太刀も現存していることから、少なくとも81歳までは作刀を続けていたことが確認できる。

 なお国俊には、銘を「国俊」の二字で切る「二字国俊」と、「来国俊」の三字で切る「来国俊」がおり、作風も大きく異なるため、両者は別人とする説が有力とされる。一方で前述のように、国俊は長寿かつ高齢になっても作刀を続けている。このことから二字銘の国俊による刀を初期作、三字銘の来国俊による刀を壮年期以降の作品とみなして同一人物とする考え方もある。

 なお「国俊」作で最も古い刀は、弘安元年(1278)十二月の銘をもつ東京国立博物館所蔵の太刀とされる。この太刀は二字国俊の代表作とされる。仮に二字国俊と来国俊が同一人物であった場合、当時は38歳前後であったと考えられる。

関連事項

参考文献

短刀 銘来国俊 メトロポリタン美術館公式サイトより

*1:徳川美術館(愛知県名古屋市)には「正和二二年」(1315)の紀年と「齢七十五」の銘が刻まれた来国俊作の太刀が伝わっており、ここから逆算することで生年が推定できる。