備後国世羅郡大田庄の今高野山およびその門前町。中世、紀伊国の高野山領となった大田庄の支配拠点となったとみられる。17世紀初頭の福島正則の時代には安芸・備後屈指の町場へと発展していた。江戸期の名称は「甲山町」であったが、文政三年(1820)の「世羅郡甲山町国郡志御用下調べ書出帳」によれば、往古は「高山町」と書かれているとする*1。
大田庄と今高野山
備後国世羅郡大田庄は永万二年(1166)、後白河上皇を領主、平重衡(清盛の子)を預所(荘園の責任者)として成立した(「丹生文書」)。大田庄は、その後領域の拡大が進み、最終的には現在の世羅町の大部分と三次市吉舎町、甲奴町、府中市上下町の一部を含み込んだ大荘園となった。
平安末期に平氏が滅亡すると、後白河院は文治二年(1186)に内乱の死者供養を名目として、有力寺院であった紀伊国の高野山金剛峯寺に大田庄を寄附(「宝簡集1」)。新たな荘園領主となった高野山は大田庄の年貢を貴重な財源と位置づけ、開発を積極的に進めていった。現地支配の拠点として今高野山を充実させていったのも、この頃と推定されている。
鎌倉期、高野山は大田庄の支配をめぐり地頭・三善氏と対立。13世紀末頃に預所となった淵信は、三善氏との裁判や大田庄支配に辣腕を振るったことが知られる。淵信は、正安二年(1301)から始まる寺町(現在の世羅町寺町)公文の道空らとの訴訟合戦などで、結果として大田庄の実務から離職させられることになったが、その後も尾道に居住し影響力を保持し続けた。
淵信離職後も、その一党に連なる了信や定淵が、高野山から大田庄の預所に任命された。了信は淵信らの供養の名目で、元享三年(1323)、今高野山に多宝塔を建立(「浄土寺文書」)。また、弘法大師入定の際使用したと伝える薦(こも)や縄といった重要な宝物を高野山より入手して今高野山御影堂の重宝となし、さらには尾道の浄土寺に寄進している(「浄土寺文書」)。
倉敷地尾道
大田庄の年貢は、海路で京都や紀伊国高野山にいる荘園領主のもとに運ばれた。その積出港は備後尾道であり、同港は仁安三年(1168)に大田庄の倉敷地*2として承認されている(「宝簡集4」)。これ以降、尾道は瀬戸内海を代表する中世港湾都市として発展していくことになる。
永享十一年(1439)から文安四年(1447)までの期間における、尾道からの大田庄年貢の輸送の状況は、「高野山金剛三昧院文書」の「大田庄年貢引付」という史料からうかがうことができる。尾道から積み出された年貢には、米や大豆、幕布などがあり、これを尾道や因島、備中連島、備前児島、播磨兵庫などの船が運送。年貢は和泉国の堺などを経由して紀伊国高野山に運ばれた。
高野山支配の終わり
室町期になると、備後守護・山名氏による大田庄への関与が強まる。応永九年(1402)七月、室町幕府は高野山に対し、山名時煕が大田庄桑原方地頭職や尾道倉敷等を支配する事と、年貢徴収も代行して毎年千石を寺に納めることを通達(「宝簡集28」)。高野山は備後守護から送られてくる年貢を受け取るだけの存在となり*3、大田庄での自らの積極的な支配は不可能になってしまった。
そして高野山では寛正四年(1463)の文書を最後に、大田庄に関わる文書はみえなくなる。
応仁元年(1467)に応仁の乱が勃発すると、その影響は大田庄の今高野山周辺にも及んだ。応仁二年(1468)八月に久代要害、九月には小世良、十一月には川尻で合戦があり、東軍の山名宗全が備後北部地毘荘を本拠とする国人・山内豊成に感状を発給している(『萩藩閥閲録』巻13)。
さらに明応三年(1494)三月、山名俊豊(宗全の曾孫)は大田庄の内の上原代官職を山内豊成に補任し、明応五年(1496)四月には山内直通(豊成の子)に大田庄本郷と寺町分の知行を与えている(『萩藩閥閲録』巻13)。
和智氏の進出と今高野山の再興
その後、備後国双三郡吉舎を本拠とする国人・和智氏が南下。大田庄上原に居館を構えた和智氏の一族は上原氏を称した。
文政三年(1820)の「世羅郡甲山町国郡志御用下調べ書出帳」によると、永正から天文の頃、今高野山の山頂部の古城(今高野山城)を上原氏が居城としていたという。居館のある上原と今高野山膝下の高山は、永正年間頃から同氏の本拠地となったとみられる*4。なお上原氏は安芸国吉田の毛利氏にも属しており、弘治三年(1557)の「毛利氏親類衆年寄衆并家人連署起請文案」には上原右衛門大夫豊将*5も加判している(「毛利家文書」)。
ただ18世紀中頃に今高野山安楽院の僧・常操が記した記録によると、天文九年(1540)二月、侵攻してきた出雲尼子氏の軍勢によって今高野山は火を放たれた。弘治二年(1556)四月、今高野山福智院の僧・覚弁は、今高野山再興のための寄附金を出した真瀬喜右衛門尉に対して「堂塔、二王門、鎮守社悉く大破たるといえども、近年兵乱打ち続き、誰ぞ再建の沙汰に及ばん」と述べており(「吉岡雅晴家文書」)、再興がままならなかったかつての状況を吐露している。
上記の安楽院の僧・常操の記録には「弘治二年六月和知右衛門大夫豊将之を経営」とあり、焼失した今高野山を和智上原豊将が中心となって再興したことがうかがえる。実際、今高野山龍華寺に伝わる鉄製の十二燈明台には、弘治二年三月吉日の紀年銘とともに「大旦那藤原氏和知右衛門大夫豊将」の陰刻がされており、和智上原豊将の寄進が行われていることが分かる*6。
高山町の発展
慶長六年(1601)、安芸・備後は毛利氏にかわって福島正則の領国となる。元和五年(1619)、福島氏に代わって浅野氏、水野氏がそれぞれ安芸と備後に入部するが、この時引き渡された「安芸国備後国御知行帳」に、世羅郡「高山町」、佐西郡「草津町屋敷」、同郡「廿日市村町屋敷」、高田郡「安芸町」、賀茂郡「下市町屋敷」(竹原町)、同郡「四日市町屋敷」、沼隈郡「鞆町」がみえる。
福島氏の時代、「高山町」はそれまでに所属していた小世良村と完全に分離した町場となり、領国経済の一翼を担う交易市場として位置付けられるようになっていたことが分かる。
なお、江戸期に甲山町(高山町)の庄屋や町年寄を代々勤めた加儀屋は、先祖である広瀬三郎右衛門が小早川隆景に随って天正年間に安芸吉田から高山に移住し、慶長年間に甲山町(高山町)目代役を勤めたことに始まるという(「広瀬家文書」)。高山町発展の端緒は、毛利氏時代に遡る可能性もある。
元和五年(1619)に入部した浅野氏も、広島城下町を中心とした物資の流通機構を整備して領国経済の発展に注力した。さらに寛永十年(1633)の幕府巡検使の領内巡察を契機として、尾道から御調郡市村、高山(甲山)を経て吉舎、三次(三吉)、さらに出雲・石見へ向かう雲石街道も整備。高山町の本陣は上記の加儀屋(広瀬家)に置かれた。
雲石街道のうち、石見国へ至る街道は石州銀山街道とも呼ばれ、石見国大森銀山で産出された銀は、この街道を経由して尾道まで運ばれた。一行は三次で宿泊した後、吉舎で昼休、高山町(甲山町)で宿泊して尾道へと向かった。この為、寛永年間までに高山町はさらに発展し、寛永十七年(1640)の領内町改めでは、町長3丁40間、家数94軒であった(「学己集」)。
関連人物
参考文献
- 甲山町史編さん委員会 編 『甲山町史 資料編Ⅰ』 甲山町 2003
- 甲山町史編さん委員会 編 『甲山町史 資料編Ⅱ』 甲山町 2004
*1:「今高野山の麓なる町」を略して「高山町」としたのではないかとの考察も併せて記している。
*2:倉敷地とは、荘園の年貢を海上運送するまでの保管する場所のこと。
*3:その後、守護方から納められるはずの年貢も、未進が続くようになる。永享十二年(1440)二月、高野山は応永三十五年(1428)から永享十一年(1439)の間の年貢未進は都合5167石余にのぼっているとし、山名氏の代官・犬橋近江守の更迭を求めている(「又続宝簡集142」)。
*4:明応年間に上原や本郷、寺町に知行を得た山内氏が、最初に今高野山城を築いた可能性もある。
*5:上原豊将の子の元将(元祐)の妻は毛利元就の娘であり、上原氏は毛利氏の親類衆であった。
*6:今高野山に伝わる「紙本著色弘法大師画像」には、軸木に弘治二年五月の墨書があり、鉄製十二燈明台と同時期の寄進であることから、この画像も和智氏によって寄進されたものだと考えられている。