備後北部、三次盆地の出入口に位置する市町。 瀬戸内海と備後北部の山間部をつなぐ交通の要衝として栄えた。中世、備北の国人・和智氏の本拠となった。
国人和智氏
和智氏は鎌倉期に備後の所領に移った広沢実村の子、実成にはじまる。その後、南北朝期に和智資実とその子・師実が吉舎に本拠を移し、強固な南天山城を築いた。
戦国期に至り、和智氏は毛利氏に属したが、永禄十一年(1568)に当主・和智誠春が毛利元就の命令によって殺害された。跡は誠春の子・元郷が継いだが、彼の代で南天山城は廃城となり、吉舎における和智氏の歴史は終わった。
地名からみる中世の市場
南天山城の城下である吉舎には、「四日市・七日市」と「古市」の地名が残っている。古市は馬洗川の西側、南天山城の大手門前の狭い桜谷に位置し、前の二つの市が成立する前の古い市であったとみられる。 その後、城下の拡大で手狭になったのと交通便利等の事情で馬洗川東の扇状地に四日市、七日市が成立したと推測される。
沿岸部との流通
鎌倉期の『とはずがたり』の中では、居館を訪れた「二条」に絵を描いてもらうため、和智実成が使いの者を鞆に走らせて絵具を調達させている。実成の代の和智氏の本拠は吉舎ではないが、このように瀬戸内海からも絵具などの貴重品のほか様々な物資が吉舎にもたらされ、取引されたのだろう。
交通の要衝
毛利輝元が家臣の内藤隆春に宛てた書状に「吉舎御宿」がみえる(『閥閲録99』)。毛利氏の定留宿所とみられ、国衆や妻女が逗留したことがうかがえる。
江戸期に入ると吉舎の町は石見国と備後北部、瀬戸内海を結ぶ街道の宿場町としてさらに発展。大森銀山で採掘された石見銀などが吉舎を経由して尾道港へ運ばれていった。
参考文献
- 『三次市史Ⅰ』 三次市史編纂委員会・編 2005
- 『日本城郭体系13 広島・岡山』 1980