戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

材木(周防国玖珂郡) ざいもく

 周防国最東部の玖珂郡の小瀬川や錦川流域で生産された材木。少なくとも鎌倉期から河川水運を用いて瀬戸内海に搬出されていた。安芸国厳島神社造営などに用いられていることが確認できる。

石国庄沙汰人の訴え

 嘉禎三年(1237)、周防と安芸の国境を流れる小瀬川に設置された「安芸国御領関所」の役人が、石国庄の年貢物である材木板を「船出浮口」と称して不当に没収しているとして、石国庄沙汰人が訴え出た(「新出厳島文書」)。

 「浮口」は「河口」とも呼ばれ、中世の河川や港湾で課す通行料を意味する。「船出浮口」というのは、川下しした材木を、瀬戸内海を航行する船に積み替える際に課税したものと考えられている。

 岩国庄沙汰人等は、石国荘の年貢物に「浮口」が課税された先例はないと主張。一方で負担そのものを否定しているわけではなかった。ただ、通常「浮口」は10分の1であるのに、480枚中135枚という割合だったため、徴収される量が多すぎると主張。

 さらに彼らが周防国山代荘内の関浜に押し入って材木を暴力的に奪い取ったとして、これを強く非難している。当時、小瀬川に「関所」を設置したのは安芸国だけでなく、周防国山代庄も「関」を設置していたことがうかがえる。

 この石国庄沙汰人等の訴状から、小瀬川流域の材木の搬出経路が分かる。すなわち、伐り出された材木は川下しで河口近くまで運ばれ、倉敷地に一時保管された後に、瀬戸内海を航行する船に積み替えれて消費地に運搬されていたとみられる。

厳島神社の造営

 室町・戦国期、厳島神社の社殿や鳥居の造営のため、玖珂郡の岩国や山代の材木がたびたび利用された。

 永享八年(1436)三月、大内氏奉行人は厳島神主・藤原親藤の要請に基づき、山代庄宇佐山(岩国市錦町宇佐郷)の材木に対する河関での堪過(免税)許可を、関役人とみられる城勘解由左衛門尉に通達している(「厳島野坂文書」)。宇佐山(寂地山系南麓を指すか)から伐り出された材木は、宇佐川・錦川を下されたものと推定される。

 永禄四年(1561)の厳島神社大鳥居造営の際は、玖珂郡多田および多田八幡宮から杉4挺と楠2本が、岩国白崎八幡宮から楠1本と杉3本が、岩国の無量寺と永興寺から松2本が、それぞれ出されている。また山代庄宇佐からは笠木が、小瀬村からは道木1000本が取り寄せられた*1

 多田の材木のうち脇貫4丁の伐り出しには多田衆300人が、岩国の大小5本の伐り出しには800人が動員された。これら多田・岩国の材木は、大小16艘の船によって厳島に運搬された(「大願寺文書」)。

 その他、岩国には「かさ木(笠木)之道具」の調達が割り当てられている。錦川下流域の岩国では、木材加工が行われていたことがうかがえる。

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造船の船板

 玖珂郡小瀬村の乙瀬の山中に「船板」という所がある。江戸期の享和二年(1802)に編纂された『玖珂郡志』によれば、その地名は、羽柴秀吉の時代に安芸国久波(玖波)唐船浜で建造された防房丸という船の船板が伐採されたことに因むという。

 玖波は造船が盛んな港であり、天正三年(1575)三月、上洛中の島津家久海上からその造船の様子を眺めて「是ハ舟を作所也、作おろさるる舟五拾二艘かハらはかりをすえ置たるハ数をしらす」と日記に記している(『中書家久公御上京日記』)。玖珂郡小瀬川流域の材木は、以前から玖波に運ばれて造船等に用いられていたのだろう。

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参考文献

  • 藤田千夏・秋山伸隆 「岩国城下の前史」 (岩国市 編 『錦川下流域における岩国の文化的景観保存調査報告書』 岩国市 2019)
  • 岩国市編纂委員会 編 『岩国市史 史料編一 自然・原始・古代・中世』 2002
  • 広島県 編 『広島県史 古代中世資料編Ⅱ』 1976
  • 広島県 編 『広島県史 古代中世資料編Ⅲ』 1978

白崎八幡宮。永禄四年、楠や杉が伐り出され、厳島神社大鳥居の材木とされた。

*1:道木の大きさは、7〜8尋のものが500本、11尋が50本と定められている。