戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

玖波 くば

 安芸国佐西郡の広島湾岸に位置する港町。現在の広島県大竹市玖波町。山間部から切り出される木材などの山林資源の積出港として栄えた。玖波の地名も貯木場を意味する「木場」が語源であるといわれる。

玖波の問丸

 応仁元年(1467)、周防秋穂の正八幡宮(秋穂八幡宮)が修造される際、安芸国西部の山間部・吉和で材木が切り出されたが、その仲介を玖波の問丸の「中務」という人物が担った。「中務」は吉和に赴いて材木を切り出す杣人に代金を支払っている。このことから当時の玖波に吉和など安芸西部山間地域の杣人と木材の取引を行う問丸が存在していたことがわかる。

 この時の木材は地御前から積出され、厳島の船で秋穂まで廻送された。玖波が生産地や港湾都市と連関し、安芸西部の地域経済を担っていたことがうかがえる。

厳島社の資金源

 天文二十四年(1555)の厳島合戦により、厳島社の在地領主である神領衆の多くが没落。その中にあって玖波は弘治三年(1557)七月、毛利氏によって改めて厳島社大願寺に与えられている。

 大願寺は玖波において、流通課税である「山海浮役」を徴収。厳島社の造営や毛利氏への公用の費用に充てている。玖波が厳島社に残された重要な資金源ともなっていたことが分かる。

盛んな造船

 天正三年(1575)三月二十三日、上洛の途にあった薩摩の島津家久は、小瀬川を渡って周防から安芸に入った後、小方から船に乗って宮島に向かった。その途中、船首左方に玖波の町を眺めている。『中書家久公御上京日記』の同日条には「くはた(玖波)とて町立有、是ハ舟を作所也、作おろさるゝ舟五拾二艘かハらはかりをすえ置たるハ数をしらす」とあり、玖波で船が多く作られていた様子を記している。

 永禄四年(1561)十一月、大願寺円海は、厳島社大鳥居棟上に際しての祝儀・肴の配賦目録を作成しているが、このリストに「久波番匠」がみえる(「大願寺文書」)。玖波には厳島社の造営にかかわる番匠が住んでいたことがわかる。

 『玖珂郡志』*1によれば、天正十八年(1590)、朝鮮出兵に当たって豊臣秀吉が唐船浜(玖波東方の入江)で防房丸などの船を造らせたという。現在の岩国市小瀬には「船板」という字名があり、防房丸の船板はこの辺りから唐船浜へ送られたとする記述がある。

 玖波では、安芸西部や周防東部の豊富な森林資源を背景に造船業が盛んであったことが推定される。

参考文献

  • 鈴木敦子「中世後期における地域経済圏の構造」(『日本中世社会の流通構造』) 校倉書房 2000」
  • 『広報おおたけ』1122号 大竹市総務企画部企画財政課 2011
  • 広島県史 中世資料Ⅲ』大願寺文書

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玖波の卯建のある町並み。江戸期の建物は慶応二年の戦火で失われたが、復興後の明治、大正期の伝統的建物が残されている。

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西国街道沿いの玖波の町並み。

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西国街道沿いの玖波の町並み。

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角屋釣井(かどやつるい)。江戸期に宿場町として栄えた際に玖波にあった四つの共同井戸の一つ。

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称名寺。その石垣は江戸期のもので「打ち込み接ぎ」といわれる工法によって積まれている。

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玖波の港とその後背の山間部。

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馬だめし峠(玖波隧道)。玖波の町並みの東側に位置する。江戸期までは馬も登ることをためらうほどの急坂だったため、この名で呼ばれた。隧道は明治六年に造られた。

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唐船浜。かつては岬にはさまれた深い入江であったという。朝鮮出兵に際し、唐船浜で防房丸などの船が造船されたことが「玖珂郡志」に記されている。

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鳴川の石畳。玖波村から西国街道を東に進むと馬だめし峠、唐船浜を経て鉾の峠にいたる。鉾の峠の急な坂道には土が流れないように石畳が敷き詰められており、現在にも一部が残っている。

*1:享和二年(1802)に広瀬喜運が著した地誌。