美作から備前を南北に貫流する吉井川の支流・吉野川の上流部に位置した市庭町。中世、同河川水系の水運と結節して、高野山金剛三昧院領大原保(大原荘)の経済的中心を担ったと思われる。
市庭町の形成
応永三十三年(1426)四月、「広峰社ほうしゅん檀那職譲状」によれば、「ほうしゅん」という人物が「みまさかの国 おはら(大原)の市」などの檀那職を「しきふ(式部)」という人物に譲り渡している。大原に市庭町が形成されていたことが分かる。
さらに同年の「美作国大原保年貢目録」にも「四百文 浄阿弥市庭屋敷分」や「弐百廿文 市庭屋敷十五間内 弐屋敷分一間別 百十文宛」などの記載がみえる。吉野川沿いに市庭屋敷が立ち並ぶ、発展した市庭町であったことがうかがえる。
大原荘の産物
上記の「年貢目録」や応永六年(1399)の「相国寺要脚年貢散用状」などによれば、大原荘の産物には米や麦、大豆などの穀物の他に油や綿、漆、麻(布)などがあった。
これらのうちで、年貢の代銭納が認められたものや、余剰生産物が生産者らによって大原の市庭に持ち込まれて売却・換銭され、現物納の年貢などとともに吉井川を下されて瀬戸内海に積出されたと思われる。特に漆などは京都の市場でも需要が多く、高値で取引されており、大原市庭にも現物を求める商人が各地から訪れたことも考えられる。