安芸国西部の大河川・太田川の上流部の盆地に位置する市庭町。現在の広島県安芸太田町戸河内。中世、厳島神領を支配する神領衆(厳島神主家の被官)の有力者・栗栖氏の本拠地。「太田」と呼ばれた周辺地域の経済拠点でもあったとみられる。
栗栖氏の本拠
栗栖氏初代・清親が下野国から太田に下向したのは応長元年(1311)といわれる。以来同氏は発坂城を拠城として、太田地域の厳島神領を支配。戸河内はその本拠として発展した。
雪舟嘉猷の来住
南北朝期、栗栖帰源は居館のあった土居に実際寺を建立。その開山として雪舟嘉猷を招致した。雪舟嘉猷は、博多の承天寺、さらには京都の東福寺の住持を歴任した高僧で、当代屈指の文化人だった。戸河内は、雪舟嘉猷や臨済宗の人脈で京都など各地とつながる実際寺を中心に、安芸西部地域の文化拠点ともなったと推定される。
沿岸部との流通
栗栖氏は神領衆として佐西郡にも所領をもっており、戸河内は廿日市や厳島といった安芸西部の主要都市と流通上の関係があったと思われる。既に栗栖氏が没落していた16世紀末ではあるが、文禄五年(1596)九月、「戸河内市住人河野道正」が厳島社の廻廊一間の檀那になっている。戸河内に「市」があったとともに、「市」の住人が厳島社と関係があったことが分かる。
市には厳島や廿日市から様々な物品が運ばれ、一方で戸河内からは厳島社の造営用材に充てる材木などが切り出されて佐東倉敷に向けて太田川に津出しされていたと思われる。
参考文献
- 『戸河内町史 通史編(上)』 2004