戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

鮎(岩国) あゆ

 周防国東部の錦川流域で獲れた鮎。下流域の岩国では、16世紀後半に鮎料理が旅人に提供されていることがみえる。鮎料理自体は古くは『延喜式』にも記載があり、古くから日本で食べられている。

旅人に提供された鮎料理

 文禄二年(1593)、肥前名護屋から国元の常陸水戸に向かっていた大和田重清(佐竹氏の家臣)は、八月二十七日に岩国に宿泊。そこでたくさんの鮎が提供され、鮎料理を食べ過ぎたと日記に記している(『大和田重清日記』)。少なくとも16世紀後半には、鮎料理が岩国の名物となっており、旅人に提供されていたことがうかがえる。

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 この時出された鮎料理は不明だが、中世、鮎料理では「鮎すし」がポピュラーだったらしい(『庭訓往来』『教言卿記』ほか)。他には鮎小漬、鮎なます、白干鮎、鮎の荒巻、煎鮎などがある(『言国卿記』『言継卿記』『鹿苑日記』)。

 周防国内では明応九年(1500)三月五日、大内義興による足利義稙の饗応の献立に「子うるか」(鮎の卵巣を使った塩辛)がみえる(『明応九年三月五日将軍御成雑掌注文』)。天文十八年(1549)、毛利元就が周防山口の大内義隆を表敬訪問した際の饗応でも、「すし」や「あゆ」が出されている(『元就公山口御下向之節饗応次第』)。

 永禄十一年(1568)、石見益田の益田藤兼・元祥父子が安芸国吉田を訪れた際に益田氏が毛利氏に対して行った饗応でも「あゆ」が献立にみえる。益田氏は食材として「あゆのしらほし百五十」を持ち込んでおり、鮎は白干(素干し)にして保存されていたことがうかがえる(「益田藤兼・同元祥安芸吉田一献手組注文」『益田家文書』)。

 なお毛利元就、輝元、秀就に仕えた玉木吉保は、元和三年(1617)に記した覚書「身自鏡」の中で、小鮎の調理法について「あぶり」「ふくさ」「すまし」を挙げている。またツマは、なすび、な、ちさ(萵苣?)としている。

 また鮎膾(なます)の作り方も、以下のように詳細に記している。

鮎膾、作ぬ先に洗て、塩をかけて、ちとちゞみたる時、清水にて濁の澄ほど洗上、折敷のうらへ入、二つにて押しほり、だしにて味を付、大こん成共、又ぬたに合候共、うりなど入吉(いれてよし)。上には、ぬたにきうりを、てきてきにして入よ。一段吉。からしぬたも吉。とかく作、すかけざる内に水へ入事、に大わるし。

江戸期の鮎漁

 江戸期の岩国領内では、鮎漁は士分のみが免札料を払うことで許可されたが、農民、町人、足軽や陪臣は禁止されていた。このため、錦川上流域の萩領では農民が免札料を払って大量の鮎を獲り、岩国などに売り払うという事が起こっていた。

 鮎漁においては投網と鮎掛と友掛は有料であったが、毛針による釣漁は無料であった。岩国の毛針釣りは明和八年(1771)に始まるとされる。これは吉川経倫が播州小野の一柳末栄の息女と結婚した際、播州で古くから行われていた蚊首(かがしら)が岩国に伝わり、鮎釣りに使用されるようになった為という。

 鵜飼による鮎漁は、吉川広嘉の時代に行われた。寛永年中(1624~43)、広嘉は趣味で父広正の知己の一人であった鵜匠(鵜川十左衛門)かその手下を招いて鮎を獲らせ、見物して楽しんでいた。

 家督後、広嘉は延宝五年(1677)に萩で捕まえた鵜2羽を京都の桂川の鵜匠のもとに送って調教してもらい、七月三日にその2羽を岩国へとりよせ、錦帯橋の上流で鵜飼をさせ、家族で見物した。このように鵜飼を好んだ広嘉であったが、延宝七年(1679)死去。以後、岩国で鵜飼が行われた形跡はないとされる*1

鮎鮨と岩国寿司

 天明八年(1788)、絵師の司馬江漢は岩国に来た時に鮎鮨を食べており、紀行文『西遊日記』(九月二十二日)に次のように書いている。

此日祭あり、宿よりも酒を出す。鮎の鮨、鮎の幅2寸、長さ8~9寸。江戸には無き物なり。

 なお鮨(すし)の作り方について、『本朝食鑑』には次のように記されている。

鮮(あたら)しい魚の鱗・腮・腸を去って洗ひ浄め、塩をまみして魚を圧すること1夜、水気を拭ひ取り、別に粳(うるち)の飯をたいて冷まして桶へ入れ、それへ魚を離して蔵(うづ)め、木蓋をし、重い石で圧する。かくすること3、4日、味の熟するに至って食べる。

 司馬江漢が「江戸には無き物なり」と述べているように、当時の江戸では、鮨(馴鮨)は姿を消し、自然発酵を待たずに飯や魚に調味酢をかけて作る早鮨(はやずし)が食べられるようになっていた。

 早鮨の中には筥鮨(はこずし)があった。大阪の筥鮨は、四角の木枠に鮨飯を詰め、その上に細切れの具を置き、さらに上に鮨飯を乗せて蓋をはめて、手で押さえて作られた。

 これが岩国に伝えられて岩国寿司になったと推定されている。岩国で確認されている最も古いすし枠は、文化七年(1810)の墨書銘があるので、司馬江漢が鮎鮨を食べた少し後の寛政年間(1789~1801)頃が、岩国寿司が作られ始めた時期と考えられている。

参考文献

  • 宮田伊津美 「錦川と河原の使われ方」 (岩国市 編 『錦川下流域における岩国の文化的景観保存調査報告書』 岩国市 2019)
  • 宮田伊津美 「錦川と河原での生活文化」 (岩国市 編 『錦川下流域における岩国の文化的景観保存調査報告書』 岩国市 2019)
  • 江後迪子 『信長のおもてなし 中世食べもの百科』 吉川弘文間 2007
  • 岩国市編纂委員会 編 『岩国市史 史料編一 自然・原始・古代・中世』 2002

錦帯橋から見た錦川での鮎釣り

吉川広嘉公像

*1:岩国の鵜飼は太平洋戦争後、観光用に復活した。