備後北部の三次盆地の馬洗川流域、現在の広島県三次市畠敷あたりにあった市町。国人・三吉氏の本拠・比叡尾山城の城下町でもあったとみられる。
16世紀中ごろには、馬洗川と西城川が江の川に合流する現在の三次町へと市の中心が移り、天正年間にいたり三吉氏による町割が行われた。
地域の中心都市
山県郡新庄(大朝町)地方に伝わる『田植草子』の一節に「網笠は茶屋に忘れた 扇子は町で落とした 買ふてまいせう 今度の三吉町で」とある。鎌倉期から歌われていたものという。「三吉町」は約40キロメートル離れている新庄地方にまで知られていたことがうかがえる。
比叡尾山城麓の市町
比叡尾山城の麓の畠敷には「殿敷」という地名があり、城主・三吉氏の館が同地にあったことが推測できる。馬洗川近くには「今市」「五日市」の二つの市に関連する地名が残っており、殿敷の三吉氏の館を中心に商業活動の場として町場が存在していたことが考えられる。
馬洗川の対岸には「十日市」や「七日市」があった。江戸期の文政年間(1818~1829)に編纂された『三次町国郡志』には、「十日市」について「往古町割の儀、畠敷比叡尾の城主三吉家の御時代文明年中(1469~1487)の頃、町割相調候様旧記に相見へ申候」とある。
同じく「七日市」については「七日市河原、大古諸人集群して牛馬市を開き、四月七日、八月七日を市立、其後、七、十七、二七と月三度の市立」とあり、古くから日市が開かれていたことがみえる。
天正年間の町割
その後、三吉の町場の中心は西に移動する。『三次町国郡志』によると、三吉広高が天正十三年(1585)に「五日市町割のことを世直屋三代久亭と申す者へ申し付けた」とある。広高はこの6年後の天正十九年に比叡尾山城から日隈山(後の比熊山城)に移ったという。
広高が町割を命じた五日市町は、西城川のほとり。比叡尾山城の麓にあった五日市が河川交通の発達にともなって移動し、人々も定住するようになって商業が発達した町場を形成していったとみられる。
五日市の西城川岸への移動は、16世紀後半ごろと推定される。三吉氏にとっては、新しい五日市町を膝下とする日隈山へと本拠を移転させ、城下町として町を編成し、振興をはかる意図があったと考えられる。
関ヶ原合戦後、三吉氏は没落するが、三吉(三次)の町は、江戸期も三次藩の中心として栄えていくことになる。