戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

鉄(備後) てつ

 中国山地に接する備後北部地域で産出された鉄素材。中世、備後の特産品として広く知られた。一部は沿岸の港から、畿内方面へも輸出された。

古代の製鉄

 備北地域では、古墳時代後期には鉄生産が始まっていた。。現在の三次市三良坂町の白ヶ迫製鉄遺跡や庄原市濁川町の戸の丸山製鉄遺跡では、6世紀頃の製鉄炉跡がみつかっている。

 奈良期には大和の朝廷へ鉄製品の鍬が「調」(地域の特産物)として納められていた。平常宮址から出土した木簡に、「三上郡信敷郷調鍬十口」の記載がみえる。

 平安初期の延暦二十四年(805)の「太政官奏」にも、備後国北部の八郡が、調である絹に代わって鉄製品を納めたことが記されている(『類聚三代格』)。鉄製品が、盛んであったことがうかがえる。

 11世紀後半に成立した『新猿楽記』にも、「諸国ノ土産(どさん)」の一つとして「備後ノ鉄」が挙げられている。備後産の鉄が、特産物としてよく知られていたことが分かる。

山内氏と製鉄

 中世、信敷荘などの鉄の産地を支配したのが、備後北部の有力国人・山内氏だった。山内氏の本拠である地毘荘本郷に関係する中世の史料には「高山門田内丑寅社鋳屋」や「鋳物屋御堂」などの地名がみえており、鋳物師が活動していたことがうかがえる。

 また地毘荘本郷の甲山城周辺からは、鍛冶の工程でできる鉄滓(通称かなくそ)が見つかっている。鉄を用いた鍛冶が、盛んであった様子がうかがえる。

kuregure.hatenablog.com

鉄の流通

 また中世には、備後南部に三原(みわら)鍛冶などが活躍しており、彼らが作る三原刀などの材料としても高い需要があったものと思われる。備後南部で作られた日本刀は、日明貿易の主要な交易品として莫大な本数が海をわたったとみられている。

 備後南部に運ばれた鉄の一部は、さらに尾道などの港町から商品として畿内方面に移出されていた。文安二年(1445)における兵庫北関の関税台帳である『兵庫北関入舩納帳』によれば、220駄余りの「金(かね)」(鉄)が、尾道瀬戸田の船によって合計13回にわたって兵庫に運ばれている。

高値で取引される

 元和二年(1616)年十一月、平戸から江戸に向かっていたイギリス商館長リチャード・コックスは、入港予定の備後ので鉄の購入をはかり、現地の定宿の女主人に調達を依頼していた。

 しかし、最悪の品でも1ピコル(約60kg)当たり175匁、二級品でも1ピコル当たり21匁している程で、しかも最上級品は全く入手できないないため、何もしていなかったことを知り、鉄の高値を嘆いている(『イギリス商館長日記』)。

 当時、備後の鉄の需要が非常に高く、調達もまた非常に困難であった状況をうかがうことができる。

kuregure.hatenablog.com

参考文献

f:id:yamahito88:20210829135301j:plain

吾妻山(庄原市比和町)池の原に残る残丘と池。砂鉄採取によって切り崩された採取跡は、支谷が土砂でうずめられ、山の斜面がえぐられた平坦な擂鉢状の地形の中に、いくつもの残丘や池が点在する地形になるという。