備後国北部の恵蘇郡のほぼ全域を占めた荘園・地毘荘の中心地。中世、備後の有力国人・山内(首藤)氏の本拠として栄えた。
首藤山内氏
地毘荘は元来、京都の蓮華王院などが領家として治めていた。鎌倉期に入り、承久三年(1221)に相模山内荘の武士である山内氏が地毘荘の地頭職を得る。
延慶元年(1308)には、山内通資が蓮華王院から地毘荘本郷の年貢徴収を請け負うに至る。いわゆる地頭請を成立させた通資ら山内氏惣領家は、正和五年(1316)に相模から地毘荘北部の新市に移住し、その後南下して本郷の甲山城を居城と定めた(『芸藩通志』)。
地毘荘本郷の市場
地毘荘本郷の年貢徴収を請け負った山内通資は、毎年銭45貫文を請料として京都の領家・蓮華王院に送金することを契約している。このことから、当時の地毘荘本郷には年貢の米を売却して銭に換金できる市が成立していたことが推測される。
実際、延文五年(1360)の「滑円鏡譲状案」には、地毘荘本郷の地名として「いちはらの新三日いち」がみえており、本郷における市の存在を示している。そのほかにも本郷には地名として畦ノ市、多穂ノ市がのこる。
江戸期に編纂された『芸藩通志』の本郷村の項には、「村内に畦市といへる所あり、昔、首藤氏、甲山城居のころ、200余戸の市聚ありしと云」とみえる。山内氏全盛期の本郷の繁栄は、長く語り継がれていた。
地毘荘本郷の産業
本郷には紺屋という地名もあり、紺屋(染物屋)などの手工業者も存在したことが推定される。備北で産出される鉄を生かした鍛冶も盛んだったとみられる。
文和四年(1355)の「山内妙通譲状」に「高山門田内丑寅社鋳屋」とあり、延文四年(1359)の文書にも「鋳物屋御堂」の記述がみえる。甲山山麓からは、鍛冶の工程でできる鉄滓(通称かなくそ)も出てきている。