戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

村上 吉賢 むらかみ よしかた

 来島村上氏重臣筑前守。 当主通康の弟。内蔵大夫吉高の父。伊予国和気郡の葛籠葛城主として、来島村上氏の要港・堀江の支配に関わった。

岡山藩士村上喜兵衛の系譜

 江戸期、備前岡山の池田家に仕えた村上喜兵衛が主家に提出した系譜に、曽祖父として村上筑前守がみえる(「岡山藩家中諸士家譜五音」三)。これによれば、筑前守は来島村上氏の当主・村上出雲守通康の弟で、伊予国和気郡「つゝら葛城」の城主であり、その子を内蔵大夫としている。

 村上内蔵大夫*1和気郡葛籠葛城主であったことは「予陽河野家譜」にもみえる。また後述のように、同時代の史料にも堀江支配に関わる村上筑前守吉賢の姿が確認できる。このことから喜兵衛の家譜の信憑性は高く、筑前守吉賢は通康の弟にあたる人物だったとみられる。

高野山への書状

  永禄六年(1563)頃、村上筑前守吉賢は十二月三日付で高野山上蔵院*2に宛て、高野聖の来春の伊予下向のことなどについて乗圓房を使者として書状を送っている(「高野山上蔵院文書」)。またこの書状の中で吉賢は高音寺の「留守」について触れ、もしこちらで御用があれば、自分に言ってほしいことを述べている。

 高音寺は伊予和気郡にある真宗寺院で、下向した高野聖の宿坊ともなっている。同じく永禄年間に来島村上氏当主・村上通康も高音寺に逗留中の上蔵院僧侶に和泉・堺までの便船を用意している。これは高音寺近辺にある同氏の拠点港・堀江の利用を前提としたものと考えられる。

周防浅海氏との関係

  周防の平郡島や屋代島を拠点とする浅海四郎左衛門尉らが、「嶋中騒劇」の際に来島村上氏への「堅固之覚悟」をもって行動したことについて「筑前守」が当主村上通康に報告している(「萩藩閥閲録」浅海清六)。「嶋中騒劇」の詳細は不明だが、浅海四郎左衛門尉らは吉賢を通じて当主・村上通康とつながっていたことがうかがえる。

高野山上蔵院の過去帳

 吉賢は永禄九年(1566)五月晦日に死去した。「高野山上蔵院文書」中の「河野氏過去帳」には、永禄九年八月二十一日に村上通康が二神又次郎を遣わして弟の「前筑前太守」の仏事を行ったことがみえる。通康は同時に童子の仏事も行なっている。彼の亡き息子の可能性もあるという。

参考文献

*1:「河野分限帳」では村上内蔵大夫の実名を吉高としている。

*2:戦国期に伊予の豪族たちが高野参詣の際の宿坊としてしばしば利用した高野山寺院。