スペイン王フェリペ2世の国王地理学者であったクリスティアン・スクローテンによって製作された地図集。ペンとインクで手描きし、そのうえに水彩絵の具で彩色した37幅の地図が収録されている。
「アトラス・ブリュッセル」の概要
大縮尺の概略地図、すなわち神聖ローマ帝国の全域をあらわした第1図と、イングランドおよび低地ドイツを描いた第2図は、この地図集がヨーロッパ中央部の地理を写しとったものであることを効果的に表現している。特に第1図が帝国全域であることは、地図集の製作意図を示しているという点で重要であるという。
第3図以降の地図は、最初の概略地図を細分した地方図という位置付けであり、第15図までがネーデルラント中央部、それ以降がネーデルラントに隣接する地方および領邦、そして小縮尺であらわした神聖ローマ帝国の残りの部分となっている。
デフェンテルの地図
これらの地図のうち、ネーデルラント中央部については、この分野の先駆者であり、スクローテンとともに国王地理学者であったヤコブ・ファン・デフェンテルによる印刷地図を参照したものもある。しかし、単なる引き写しではなく、細部においてスクローテンの地検が追加、反映されている。
デフェンテルはカール5世の治世であった1540年(天文九年)頃からこの地位にあり、その地図の多くは印刷され刊行されていた。スクローテンとデフェンテルの間に個人的なつながりがなくとも、参照は可能であったとみられる。
スクローテンのオリジナル地図
ネーデルラントの隣接地方では、スクローテン自身の土地測量に基づいた完全なオリジナル地図にになっている(全11図)。ここには、スクローテンがフェリペ2世に献上し、国王地理学者に任命されるきっかけとなったフェルウェの地図も含まれている。それ以外は、新たな測量行脚に由来するものと思われる。
すなわち、ルクセンブルクからニーダーライン、ザウアーラント、ヴェストファーレン(ウェストファリア)を経てフリースラントにいたるまでの全域が、スクローテンによって独自に製作された最初の地図とみられる。
スクローテンのこれらの地図は、そこに示された都市間の距離と方角が、現在の水準での計測と比べても、高い精度で一致していることが指摘されている。スクローテンの駆使した三角測量法の技術力が功を奏したと考えられている。この都市間の距離と方角の正確さが、スクローテンの地図表現の骨格をなしていたといわれる。
完成後の行方
1573年(天正元年)、完成した「アトラス・ブリュッセル」はネーデルラントの執政・アルバ公(フェルナンド・アルバレス・デ・トレド)に提出され、その後にマドリードのスペイン王フェリペ2世のもとへ送付された。
1567年(永禄十年)、アルバ公はフェリペ2世の異母姉マルハレータに代わって執政となり、スペイン軍を率いてネーデルラントの新教徒と激しく戦っていた。フェリペ2世とアルバ公にとって、ネーデルラント支配のために地理的情報は極めて重要なものだったと考えられる。
しかし「アトラス・ブリュッセル」が納品された1573年当時、アルバ公は新教徒派を率いるオラニエ公ウィレムに押されつつあり、同年に後任のルイス・デ・レケセンスと交代してスペイン本国に帰国している。このため、「アトラス・ブリュッセル」がどのように使用されたかは不明となっている。
以後、軍事情報でもあった「アトラス・ブリュッセル」は秘匿され、人々から忘れられていった。1859年、この地図集は骨董商によって売りに出されたことで、再発見された。現在はブリュッセル王立図書館に所蔵されている。
オルテリウスによる参照
地図製作者アブラハム・オルテリウスは、「アトラス・ブリュッセル」におけるオリジナルであるヴェストファーレンの地図を、地図帳『世界の舞台』の1579年(天正七年)以降の全ての版に採用している。
オルテリウスは優れた地図を渉猟・収集しており、スクローテンの地図にも目をつけていたと推定される。ただしスクローテンの地図は、上記のようにスペイン政府が押さえていた。オルテリウスはなんらかの形で、この地図集の手稿を直接スペイン政府から入手することができたと考えられる*1。
これにより、本来は機密であるはずのスクローテンの手稿地図はオルテリウスの手に渡り、スクローテンの名は広く普及したオルテリウスの地図帳の中に深く刻み込まれることになった。
参考文献
*1:1575年からオルテリウスは、国王地理学者の地位にあった。