備中国一宮・吉備津宮(吉備津神社)の門前町。大平山と吉備中山に挟まれた吉備路の回廊部に位置する。備中国の内外に広がる吉備津宮領の中心であり、同領や周辺地域の物資集散や年貢の換金を担った。
吉備津門前町の形成と水陸交通
正和三年(1314)五月、吉備津宮領地頭代の請文には、年貢を仁和寺に送進する際に代銭で送る場合は、その時の和市(相場)で換算することが定められている。このことから、年貢が換金される市が吉備津宮の門前市であった可能性も指摘されている。
また永享六年(1434)の「吉備津宮旧記断簡」によれば、吉備津宮に対して初尾を毎年滞りなく納める町人には、備中国内の商売における「駒□役」と「海上浦役等」の公事について免除されていた。この頃までには確実に門前町が形成され、吉備津宮に掌握される町人がいたことがわかる。
中世、海岸線は吉備津付近にまで迫っていたと推定されている。吉備津門前町は港町としての側面もあり、その町人は水陸両方の流通に関わっていたと思われる。
自治組織「町中」の形成
室町期の備中国守護・細川氏は、吉備津宮社務職を兼務していた。吉備津宮を影響下に置き、吉備津門前町からは年貢・公事の徴収を行なっていた。
16世紀初期の永正年間とみられる「中尾又三郎久隆外二名連署書状」では、細川氏が「町中」に課した諸公事の無沙汰について対処すべく指示を出している。「町中」とは吉備津門前町の町人たちで組織された自治組織とみられ、吉備津門前町の発展もうかがうことができる。
細川氏は「町表歴々」に書状の旨を伝えるよう述べており、彼ら「町表歴々」が町年寄的地位にあって自治組織「町中」を運営していたと考えられる。