戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

江尻 えじり

 駿河国庵原郡の巴川河口部に位置した港町。中世、伊勢海地域と関東(坂東)を結ぶ太平洋航路の中継港として栄えた。

 安部川や有度山南面の海蝕崖の砂礫によって形成された砂嘴(三保半島)の内側の入江が、江尻の停泊地として利用された。12世紀前半に成立した『今昔物語集』には、江尻と思われる渡し場がみえる。

志摩と坂東をつなぐ中継港

 南北朝初期、志摩国・阿久志*1の住人・藤内左衛門入道道妙は、阿久志・坂東間の廻船交易を行って莫大な財を築いた(『光明寺文書』)。この道妙の弟定願は江尻に居住し、阿久志と坂東との交易の中継にあたっていた。

 道妙の死後、定願は兄の遺財を抑留したとして訴えられる。その遺財の一つが、道妙が出立させた船四艘だった(『光明寺文書』)。この船は、別の史料で「江尻船」と呼ばれており、江尻に置かれていたことが分かる。

 永和二年(1376)十月にも、駿河国円覚寺領の年貢が江尻から鎌倉に回漕されていたことが史料にみえる。江尻-坂東間の航路が物資輸送のため活発に利用されていた状況がみえる。

駿河を代表する商業都市

 明応七年(1498)八月の明応大地震では、江尻も大きな被害を受けたと推測される。しかしその後の享禄五年(1532)の今川氏輝判物には、当時江尻において「毎月三度市」が開かれ、「上下之商人宿」があったことが記されている。この頃には、既に復興を遂げていたものと思われる。

 また、天文二十二年(1553)、駿府の商人頭・友野氏は、今川義元から江尻における木綿徴収役を認められている。戦国期、江尻が木綿流通などで商業的に発展し、今川領国経済の重要な位置にあったことがわかる。

関連人物

関連交易品

参考文献

*1:悪志とも、現三重県鳥羽市安楽島町